ジョン・ロックの寛容論
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ジョン・ロックの寛容論の主眼は、聖俗を分離させること、とりわけ為政者が信仰の問題に干渉しないようにさせることであった。彼の後年の作品『寛容についての書簡』A letter concerning toleration. (1685)では、主に3つの原理が掲げられている。 第一に、キリスト教会および信徒は、人類愛の見地から、他人を迫害する権利を持たない。 いかなる私人も、教会や宗教の違いを理由として、他人の社会的権利の享有をそこなう権利を持ってはおりません。…(中略)…いや、われわれはたんなる正義という狭い限度に満足することなく、慈愛、博愛、寛大がそれに加えられねばなりません。 — ジョン・ロック『寛容についての書簡』 第二に、人の認識範囲は狭く、また誤り易いので、自分の宗教的な意見が正しく、他人のそれが誤っているということについて、確実な知識を持てない。 確かに、国王は他の人々よりも権力という点では生まれながらに上位にあります。しかし、自然においては平等です。支配の権利も支配の技術も、それ以外のことがらの確実な知識を伴うものとは限りませんし、ましてや真の宗教の知識を伴うものではさらさらないのです。 — ジョン・ロック『寛容についての書簡』 第三に、暴力という強制によって人々を救済することはできない。 さらにまた、これら二つの意見を異にする教会のいずれかが正しいことが明らかであったとしても、だからと言って、その正しいほうが他方の教会を破壊する権利が生じることはないでしょう。なぜなら、教会は世俗のことがらに関してはいかなる支配権をも持つものではなく、人々の心に誤りを納得させ、真理を教えるのに、火や剣は決して適切な道具ではないからです。 — ジョン・ロック『寛容についての書簡』 このようなロックの寛容論の通奏低音は、可謬的な人間という人間像である。
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ジョン・ロックの寛容論
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「アメリカ合衆国における政教分離の歴史」の記事における「ジョン・ロックの寛容論」の解説
ジョン・ロックは「寛容論」(1667年)や「寛容書簡」(1689年)で政教分離を論じた。王政復古時代の1666年、シャフツベリ伯アントニー・アシュリー=クーパーと出会ったロックは、翌年にロンドンのシャフツベリ伯邸に居を移し、『寛容論』を執筆した。ロックは統治者の政治権力を世俗的な事柄に限定し、「統治者はただ人々を、他者によって侵害や危害を被ることが護るだけなのだ(これが完全な寛容である)」と主張し、また立法者は道徳上の徳性や悪徳とはまったく関係がない、と論じた。さらに、「統治や社会には全く関係がない」ような思弁的意見や、神への礼拝は、絶対的な寛容への権利を持つと論じた。 1682年にシャフツベリ伯は王位排斥問題で失脚してオランダに亡命、ロックもシャフツベリ伯を追って翌年にオランダに亡命した。シャフツベリ伯は同年に死去したが、ロックはオランダに1689年まで住み、神学者リンボルクと交流し、「寛容に関する書簡」を執筆した。ロックは、自己の信仰や教義の防衛義務を主張するコンフェッショナリズムの立場を克服し、信条の対立が政治的闘争となるコンフェッショナリズム の原因を「教会と国家との一致」に見て、「教会と国家の分離」すなわち政教分離を主張し、政治秩序の安定を図った。ロックによれば国家は世俗的善の保全を目的とするのに対して、教会は「神をおおやけに礼拝するため、人々が自発的に結びついている自由な集まり」であり、教会は「国家からも世俗の事柄からも全く区別され、切り離されて」いる、とした。 ただし山岡龍一によれば、ロックは政治と宗教の分離という意味での政教分離は主張しておらず、また国教会制度そのものを批判してもいないし、すべての宗教に対して中立なのでもない。ロックはユダヤの国家はテオクラシー(神権政治)として建設されたが、「福音のもとでは、キリスト教国家(respublica Christiana)というものは絶対にありえない」と寛容書簡で述べている。 またロックは「宗教的集会において、公共の平和に反するようなことが行われるならば、それは定期市で起こったときと同様に、しかも寸分たがわぬ仕方で阻止されるべきです」として、「謀反人、殺人者、刺客、盗人、強盗、姦夫、中傷者、誹謗者」はどんな教会に属していようと処罰されるべきであるとした。そして、「異教徒でも、マホメット教徒でもユダヤ人でも、宗教のため国を追われるべきでない」とした。 他方でロックはカトリック教徒を寛容の対象から除外して、カトリック教徒は教皇の無謬性を盲信しており、非カトリック教徒との約束不履行を正当化しているので、市民社会のメンバーに適さないとも主張した。
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