ロックの寛容論
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「ロックの寛容論」の解説
ジョン・ロックは1686年から1689年にかけ、亡命先のオランダで『寛容についての書簡(英語版)』を書いた(公表は1689年)。ロックは1683年の冬、アムステルダムでレモンストラント派の知識人フィリップ・ファン・リンボルヒュ(オランダ語版)と出会い、意気投合した。同書簡は、ロックとファン・リンボルヒュの友情と意見交換の末に生まれたものである。ロックはそこで聖書にかかわる議論と政治哲学的な考察とを関連づけながら、「市民政府にかかわるものと宗教に属するもの」を分けることの必要性、すなわち政教分離の思想を示し、「前者と後者の権利を分ける正確な境界線」を示すことが不可欠であると主張した。 ロックによれば国家は「市民の利益の確立、維持、促進のためにのみ樹立される人間の社会」なのであり、それゆえ法が人々の財産と健康を保持しようとするならばそれを回避してはならず、人々が健康で豊かになろうという意志を有するならばそれを妨げることはできないとしており、これについて国家は人民に必要な措置を外的に講じなくてはならない。「内面的信念」に支配されるところの宗教領域は、こうした外的措置の原動力にはならないし、その能力も持たないとロックは指摘する。ロックにあっては宗教はすでに個人の問題と考えられており、教会の多元性はすでに前提条件として想定されているのである。また、ロックは教会を出入り可能な結社としてみており、ムスリムやユダヤ教徒もその信仰する宗教を理由に国家から排除されてはならないとした。ロックは、同時期にオランダに亡命していたピエール・ベール(詳細は後述)ら亡命ユグノー知識人と親交を結んだが、ナントの勅令廃止の衝撃から国家と教会の完全な分離と教会はその構成員の自発的な集まりであるべきだと考えた。 ロックは新女王とともにイングランドに帰国するまで、オランダの地で『統治二論』『人間悟性論』『教育に関する考察』などを執筆しており、『統治二論』では名誉革命を支持してロバート・フィルマーの王権神授説を批判し、ホッブズ同様社会契約説を軸として国家論を展開したうえ、そのなかで抵抗権も唱えてアメリカ独立戦争やフランス革命に影響を与えた。 一方、ロックはベールやロジャー・ウィリアムズとは違って無神論を認めようとせず、1695年に『キリスト教の合理性』を著し、思考する者は同時に信仰する者でもあるというところから論を起こした。ロックによれば、全知全能の神の存在やその神に従い、崇敬する義務があるといった宗教における中心教義は、理性や経験に照らしてこれらに合致しているのであり、そうした前提に立てばキリスト教徒であることは合理的な責務である。しかし、合理的なキリスト教徒は伝統的な信仰に関して理性ゆえにためらいをおぼえる部分まで受容すべき理由はないのであり、最小限度にそぎ落とされた有識者が安心して信用できる範囲の「合理的な宗教」を理性をもって信仰すべきであるとした。
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