ロックの寛容論とは? わかりやすく解説

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ロックの寛容論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)

ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「ロックの寛容論」の解説

ジョン・ロック1686年から1689年にかけ、亡命先オランダで『寛容についての書簡英語版)』を書いた公表1689年)。ロック1683年の冬、アムステルダムでレモンストラント派知識人フィリップ・ファン・リンボルヒュ(オランダ語版)と出会い意気投合した同書簡は、ロックとファン・リンボルヒュの友情意見交換の末に生まれたのであるロックはそこで聖書にかかわる議論政治哲学的な考察とを関連づけながら、「市民政府にかかわるもの宗教属するもの」を分けることの必要性、すなわち政教分離思想示し、「前者後者権利分け正確な境界線」を示すことが不可欠であると主張したロックによれば国家は「市民利益確立維持促進のためにのみ樹立される人間社会」なのであり、それゆえ法が人々財産と健康を保持しようとするならばそれを回避してはならず人々が健康で豊かになろうという意志有するならばそれを妨げることはできないとしており、これについて国家人民必要な措置外的に講じなくてはならない。「内面的信念」に支配されるところの宗教領域は、こうした外的措置原動力にはならないし、その能力持たないロック指摘するロックにあっては宗教はすでに個人問題考えられており、教会多元性はすでに前提条件として想定されているのであるまた、ロック教会出入り可能な結社としてみており、ムスリムユダヤ教徒もその信仰する宗教理由国家から排除されてはならないとした。ロックは、同時期にオランダに亡命していたピエール・ベール詳細後述)ら亡命ユグノー知識人親交結んだが、ナントの勅令廃止衝撃から国家教会の完全な分離教会その構成員の自発的な集まりあるべきだと考えたロックは新女王とともにイングランド帰国するまで、オランダの地で『統治二論』『人間悟性論』『教育に関する考察』などを執筆しており、『統治二論』では名誉革命支持してロバート・フィルマー王権神授説批判しホッブズ同様社会契約説を軸として国家論展開したうえ、そのなかで抵抗権唱えてアメリカ独立戦争フランス革命影響与えた一方ロックベールロジャー・ウィリアムズとは違って無神論認めようとせず、1695年に『キリスト教合理性』を著し思考する者は同時に信仰する者でもあるというところから論を起こしたロックによれば全知全能神の存在やその神に従い崇敬する義務があるといった宗教における中心教義は、理性経験照らしてこれらに合致しているのであり、そうした前提立てばキリスト教徒であることは合理的な責務である。しかし、合理的なキリスト教徒伝統的な信仰に関して理性ゆえにためらいをおぼえる部分まで受容すべき理由はないのであり、最小限度にそぎ落とされ有識者安心して信用できる範囲の「合理的な宗教」を理性をもって信仰すべきであるとした。

※この「ロックの寛容論」の解説は、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の解説の一部です。
「ロックの寛容論」を含む「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事については、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の概要を参照ください。

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