ジョン・レノンの脱退宣言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 07:44 UTC 版)
「ビートルズの解散問題」の記事における「ジョン・レノンの脱退宣言」の解説
1969年9月20日、ビートルズの4人と当時のマネージャーであるアラン・クレインは、米国キャピトル・レコードとの契約更新の手続きのためアップル本社で会合を持った。その席上において、レノンとマッカートニーはバンドの今後を巡って口論になり(マッカートニーの自伝「Many Years From Now」における記述によると、マッカートニーはライブ活動の再開を望み、小さなクラブでのギグをやろうと提案したが、レノンはこれに猛反発したらしい)、挙句の果てにレノンはマッカートニーに向かって「“契約書にサインするまでは黙ってろ”と言われたんだけど、君がそう言うんなら教えてやるよ。俺はもうビートルズを辞めることにした」と吐き捨てた。しかし契約更改するまでは脱退を許さないとクレインに説得され、レノンの脱退宣言はこの時点では契約上では却下されたが、レノンはこれ以降ビートルズとしてスタジオに戻ることはなかった。 ちなみに、1969年6月以降のレノンは重度のヘロイン中毒で、周囲の意見にほとんど耳を傾ける余裕がなかったそうである。 マッカートニーは、この時のレノンの脱退宣言がよほどショックだったのか、暫くの間スコットランドの農場に引き篭ってしまった。その頃のマッカートニーを心身ともに支えたのが、当時のマッカートニーの妻であるリンダ・マッカートニーだった。後にマッカートニーは、自伝で「あの時リンダが支えてくれたから、ソロでやっていく決心がついた」と述懐している。 2021年のインタビューでポールは、解散はジョンが言い出したもので、自分はバンドを続けたかったと述べている。
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