カンタベリー大司教とは? わかりやすく解説

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カンタベリー大司教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/28 19:45 UTC 版)

カンタベリー大司教(カンタベリーだいしきょう、Archbishop of Canterbury)は、 イングランドカンタベリー大聖堂を大司教座とするローマ・カトリック教会大司教であった。

概要

597年、「アングロ・サクソン人たちをキリスト教に改宗すべし」というローマ教皇グレゴリウス1世の命を受けて、イングランドへやってきたカンタベリーのアウグスティヌスカンタベリーに教会を建てて布教の根拠地とし、初代カンタベリー大司教となる。

タルソスのテオドルス669年 - 690年)によって、イングランドの司教区はカンタベリー大司教座を中心に組織された。最初はベネディクト会の教会として建立されたが、16世紀半ばに修道院は解散させられ、以降はヘンリー8世の離婚問題が引き金となって創立されたプロテスタントイングランド国教会の総本山となる。

歴代カンタベリー大司教の中では、「スコラ哲学の父」と称されるアンセルムス1170年に国王ヘンリー2世との不和が原因で大聖堂内で暗殺されたトマス・ベケットヘンリー7世の経済顧問でもあったジョン・モートン英語版リチャード1世大法官を兼任して遠征で不在の国王に代わって政務を執ったヒューバード・ウォルターメアリー1世に抗して刑死したトマス・クランマーが有名である。

関連項目


カンタベリー大司教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/02 13:42 UTC 版)

カンタベリーのランフランクス」の記事における「カンタベリー大司教」の解説

ルーアン大司教空位となった頃(1067年)、投票者意思ランフランクスへ傾いていた。しかしスティガンドが1070年8月15日教会役職から退けられるとランフランクスルーアン大司教候補として推す声は弱まっていき、代わってイングランド首座司教指名された。彼は早くも1070年8月29日にその任に就いた新大司教就任してすぐに教会再構築改革方針進めた彼の最初に直面した難事ヨーク大司教当選者であるバイユートマ(かつてのランフランクス弟子でもある)に関するもので、トマ自分管区カンタベリー強弁してイングランド中部大部分自分管区にすることを主張した。これはカンタベリー司教区ヨーク司教区長きにわたる首位権論争始まりであった。。 ランフランクス教皇からパリウム拝領するためにローマ訪問しアレクサンデル2世から、争点イングランド教会会議解決されるべきだという指示受けた。そのため1072年ウィンチェスター会議開かれた。この会議においてランフランクスかねてより欲していた首位権確固たるものとしたが、それにもかかわらず教皇権に基づく名目的な面では確固たるものとすることは生涯できなかった。これはグレゴリウス7世1073年教皇となったことの影響があるとされるランフランクスギヨーム2世補佐してイングランド教会独立維持させた。また、教皇権帝国の間のいさかいには中立を貫くという考え賛意示していたという。ランフランクスイングランド国内問題により熱意注いだ彼の大局的な目的腐敗・しがらみから教会立ち直らせることにあった。彼は修道院制度強力な支援者であった。彼は努めて教区司祭たちに禁欲強いたランフランクスは王の許可得て教会会議教会問題扱ったバイユーウード場合(1082年)やダラム司教カレーギヨーム場合(1088年)には、彼は司教団の判断正当化するために、法廷訴え前に自身法的技巧発揮したランフランクスあらゆる要職ついているイングランド人ノルマン人挿げ替える流れ加速させた。しかし、ランフランクスの上げた候補者たちは皆立派な人物であったが、彼らが皆前任者より優れていたというわけではない。管区における精神的な目的によるこの混合には大きな理由存在した当時伝統的に首座司教は王の議会によってその指導的な地位任じられていた。それに対して教会側の意向は王の機嫌損ねないようなやり方ランフランクスが力を揮えるようになることを望んでいた。ギヨーム2世イングランド留守にした際にランフランクス彼の代理人として振る舞うことが何度かあった。 ランフランクスギヨーム2世対す最大政治的功績1075年なされたこの年に彼はノーフォークヘレフォード伯爵三人企てた反乱気付き、それを防いだのである反乱者の一人であったノーサンブリア伯ワルセオフがすぐに戦意喪失してランフランクス反乱企て告白したため、ランフランクス伯爵ロジャー恭順するよう促し最終的には彼と彼の郎党破門した。ランフランクスはワルセオフの命をとりなし反乱者の最後一人に関しても他の二人巻き込まれ無実被害者だとしてとりなした。彼は司教ウルフスタンとの親交をもって生涯過ごした1087年ギヨーム2世死に際して、ランフランクスはアングロ・ノルマン貴族から不平の声が上がったのにもかかわらずウィリアム・ルーファスのイングランド王即位保証した1088年には彼が奨励したために、バイユーウードその他の王兄ロバート同盟者たちと戦う上で王の側面保護するイングランド人民兵現れた。彼はルーファス政治に関する約束だけを強要し、王がこの約束無視した時には恐れことなく諫言した。ランフランクス生きているうちは彼が王の政府運営の最も悪い面を抑止していた。しかし彼の抑止する手はあまりにも早く王を離れてしまった。1089年ランフランクス高熱倒れ5月24日に皆から惜しまれつつ世を去ったいくつかの明白な道徳的知的欠点にもかかわらず、彼はギヨーム2世とともにノルマン人の法をイングランド教会民衆仕込んだ人々の中で最も卓越し、最も恬淡たる人物であった。彼は政治家としては教会における伝統的な理想形維持することに関わった。首座司教としては彼は聖職者規律教育水準を向上させた。彼の改革レオ9世のような教皇の心に留められ、教会国家の関係に拘束され自然順序に導かれた。彼が作り出した均衡状態は不安定で、しかもギヨーム2世彼の個人的な権威依存したものであった

※この「カンタベリー大司教」の解説は、「カンタベリーのランフランクス」の解説の一部です。
「カンタベリー大司教」を含む「カンタベリーのランフランクス」の記事については、「カンタベリーのランフランクス」の概要を参照ください。

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