カンタベリー大司教
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カンタベリー大司教(カンタベリーだいしきょう、英:Archbishop of Canterbury)は、 イングランドのカンタベリー大聖堂を大司教座とするローマ・カトリック教会の大司教であった。
概要
597年、「アングロ・サクソン人たちをキリスト教に改宗すべし」というローマ教皇グレゴリウス1世の命を受けて、イングランドへやってきたカンタベリーのアウグスティヌスがカンタベリーに教会を建てて布教の根拠地とし、初代カンタベリー大司教となる。
タルソスのテオドルス(669年 - 690年)によって、イングランドの司教区はカンタベリー大司教座を中心に組織された。最初はベネディクト会の教会として建立されたが、16世紀半ばに修道院は解散させられ、以降はヘンリー8世の離婚問題が引き金となって創立されたプロテスタント・イングランド国教会の総本山となる。
歴代カンタベリー大司教の中では、「スコラ哲学の父」と称されるアンセルムス、1170年に国王ヘンリー2世との不和が原因で大聖堂内で暗殺されたトマス・ベケット、ヘンリー7世の経済顧問でもあったジョン・モートン、リチャード1世の大法官を兼任して遠征で不在の国王に代わって政務を執ったヒューバード・ウォルター、メアリー1世に抗して刑死したトマス・クランマーが有名である。
関連項目
- カンタベリー大主教の一覧 ‐ カトリック時代のカンタベリー大司教も列挙する
- カンタベリー大主教
- イングランド国教会
- 聖公会
- ヨーク大司教
- カンタベリー物語
カンタベリー大司教
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「カンタベリーのランフランクス」の記事における「カンタベリー大司教」の解説
ルーアン大司教が空位となった頃(1067年)、投票者の意思はランフランクスへ傾いていた。しかしスティガンドが1070年8月15日に教会の役職から退けられるとランフランクスをルーアン大司教候補として推す声は弱まっていき、代わってイングランドの首座司教に指名された。彼は早くも1070年8月29日にその任に就いた。新大司教は就任してすぐに教会の再構築・改革の方針を進めた。彼の最初に直面した難事はヨークの大司教当選者であるバイユーのトマ(かつてのランフランクスの弟子でもある)に関するもので、トマは自分の管区がカンタベリーと強弁してイングランド中部の大部分を自分の管区にすることを主張した。これはカンタベリー司教区とヨーク司教区の長きにわたる首位権論争の始まりであった。。 ランフランクスは教皇からパリウムを拝領するためにローマを訪問し、アレクサンデル2世から、争点はイングランドの教会会議で解決されるべきだという指示を受けた。そのため1072年にウィンチェスターで会議が開かれた。この会議においてランフランクスはかねてより欲していた首位権を確固たるものとしたが、それにもかかわらず、教皇権に基づく名目的な面では確固たるものとすることは生涯できなかった。これはグレゴリウス7世が1073年に教皇となったことの影響があるとされる。 ランフランクスはギヨーム2世を補佐してイングランドの教会の独立を維持させた。また、教皇権と帝国の間のいさかいには中立を貫くという考えに賛意を示していたという。ランフランクスはイングランド国内の問題により熱意を注いだ。彼の大局的な目的は腐敗・しがらみから教会を立ち直らせることにあった。彼は修道院制度の強力な支援者であった。彼は努めて教区司祭たちに禁欲を強いた。 ランフランクスは王の許可を得て教会会議で教会の問題を扱った。バイユーのウードの場合(1082年)やダラム司教のカレーのギヨームの場合(1088年)には、彼は司教団の判断を正当化するために、法廷に訴える前に自身の法的技巧を発揮した。 ランフランクスはあらゆる要職についているイングランド人をノルマン人に挿げ替える流れを加速させた。しかし、ランフランクスの上げた候補者たちは皆立派な人物であったが、彼らが皆前任者より優れていたというわけではない。管区における精神的な目的によるこの混合には大きな理由が存在した。当時伝統的に首座司教は王の議会によってその指導的な地位に任じられていた。それに対して教会側の意向は王の機嫌を損ねないようなやり方でランフランクスが力を揮えるようになることを望んでいた。ギヨーム2世がイングランドを留守にした際にランフランクスが彼の代理人として振る舞うことが何度かあった。 ランフランクスのギヨーム2世に対する最大の政治的功績は1075年になされた。この年に彼はノーフォークやヘレフォードの伯爵三人が企てた反乱に気付き、それを防いだのである。反乱者の一人であったノーサンブリア伯ワルセオフがすぐに戦意喪失してランフランクスに反乱の企てを告白したため、ランフランクスは伯爵ロジャーに恭順するよう促し、最終的には彼と彼の郎党を破門した。ランフランクスはワルセオフの命をとりなし、反乱者の最後の一人に関しても他の二人に巻き込まれた無実の被害者だとしてとりなした。彼は司教ウルフスタンとの親交をもって生涯を過ごした。 1087年のギヨーム2世の死に際して、ランフランクスはアングロ・ノルマン貴族から不平の声が上がったのにもかかわらずウィリアム・ルーファスのイングランド王即位を保証した。1088年には彼が奨励したために、バイユーのウードやその他の王兄ロバートの同盟者たちと戦う上で王の側面を保護するイングランド人の民兵が現れた。彼はルーファスに政治に関する約束だけを強要し、王がこの約束を無視した時には恐れることなく諫言した。ランフランクスが生きているうちは彼が王の政府運営の最も悪い面を抑止していた。しかし彼の抑止する手はあまりにも早く王を離れてしまった。1089年にランフランクスは高熱で倒れ、5月24日に皆から惜しまれつつ世を去った。いくつかの明白な道徳的・知的欠点にもかかわらず、彼はギヨーム2世とともにノルマン人の法をイングランドの教会や民衆に仕込んだ人々の中で最も卓越し、最も恬淡たる人物であった。彼は政治家としては教会における伝統的な理想形を維持することに関わった。首座司教としては彼は聖職者の規律・教育の水準を向上させた。彼の改革はレオ9世のような教皇の心に留められ、教会と国家の関係に拘束された自然順序に導かれた。彼が作り出した均衡状態は不安定で、しかもギヨーム2世や彼の個人的な権威に依存したものであった。
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