ウィリアム1世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/03/08 22:32 UTC 版)
ウィリアム1世(William I)はイギリスの君主の名前。
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ウィリアム1世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 09:56 UTC 版)
「イングランド教会史」の記事における「ウィリアム1世」の解説
エドワード懺悔王の死後、1066年のヘイスティングズの戦いに勝利したウィリアム1世がイングランド王に即位してノルマン朝を開始した。ウィリアムは自身の王権を強化しようとして、イングランドに強力な支配権を打ち立てようと試み、イングランド国内の司教や大修道院長を自ら指名し、指輪と司教杖を与えて叙任した。このことは当時の教皇庁が進めていた、俗人による聖職叙任を排除しようという改革運動と真っ向から対立するものであった。ウィリアムはノルマンディー公時代から教会改革の精神には賛同し、自領の聖職者の倫理的・道徳的改革には熱心であった。しかしグレゴリウス改革の主眼である聖職叙任権については、自己の意志を貫徹し、ノルマンディー公時代から世俗家系の者を司教位につけ、イングランド征服後も征服以前にウィリアムに仕えていた有力者を優先的に司教に任じた。。 1073年にグレゴリウス7世が登極すると、グレゴリウスはウィリアムを説得して俗人叙任を止めさせようとしたが、徒労に終わった。 ウィリアムは勅令を出して、イングランドの臣下が国王が同意しない破門宣告に同意することや、司教が国王に無断で出国すること、国内の聖職者が国王の認めない教皇書簡を受け取ることを一切禁じた。 ウィリアムの宗教政策はカンタベリー大司教ランフランクの協力によって推進された。ランフランクはまず、カンタベリー大司教のイングランドにおける首位性を確立するため、ヨーク大司教トマスに服従誓願を迫り、それを取り付けることでイングランドにおけるカンタベリー大司教の首位権確立に大きな前進をもたらした。ウィリアム1世の下に王国を統一するためにもこれは必要なことであった。ランフランクはカンタベリー大司教のイングランドにおける首位性が確認されないならば、ヨーク大司教がカンタベリー大司教と別個にイングランド王を聖別できる可能性があり、王国の統一にとって不利益であることを示唆した。この逸話についてはあまり重視しない見解もある。 ローマ教皇庁は地域的な首位教会という考えには反対であったので、これを支持しなかったが、ウィリアムとランフランクは伝統的な政教協力の思想の下に、イングランドに強力な政府を樹立し、イングランド教会の独立を守り抜いた。このカンタベリー大司教の首位権の確認が、イングランド王国を信仰を通じた一つの共同体に変え、普遍的カトリックからの切り離しをもたらし、のちの国民国家へつながる枠組みの萌芽を成立させたという見解もある。
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