教会改革
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教会改革(きょうかいかいかく)とは、11世紀半ばから12世紀半ばにいたる中世ヨーロッパのキリスト教教会における改革。教皇権が王権に対して優位となった。改革以前までは聖職者と俗人がともに教会(エクレシア)に属していたが、教会改革において俗人が次第に締め出されて、教皇首位権のもとに教階制(ヒエラルキア)へと統合されていった[1]。教皇改革[1]、教皇革命ともいう[2]。従来知られてきた叙任権闘争やグレゴリウス改革を含めて、さらにその前後のより広い時期を指す[1]。
- ^ a b c d e f 関口武彦「教皇改革」山形大学紀要41巻2号,2011年2月
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 世界各国史13 ドイツ史,「第二章 苦闘する神聖ローマ帝国 第一節 教皇革命」(山内進)、山川出版社,2001,pp.45-57.
- ^ a b c d e f ゲオルク・シュトラック、訳菊池重仁「教会改革から宗教改革へ 盛期・後期中世における教皇権」史苑75巻2号、2015年
- ^ 尾崎秀夫「教会」歴史学事典,弘文堂
- ^ 高柳俊一「政教分離」新カトリック大事典3、研究社 p.596-597
- ^ 野口洋二「コンコルダート」日本大百科全書(ニッポニカ)小学館
- ^ 「政教条約」新カトリック大事典3、研究社 p.593-595
- ^ a b c d e 世界各国史13 ドイツ史,山川出版社,2001,pp.57-75.
教会改革
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「パウロ6世 (ローマ教皇)」の記事における「教会改革」の解説
パウロ6世は公会議を全うさせ、その理念に基づく教会改革の実施に取り組んだ。また、パウロ6世の下でシノドス(司教会議)が初めて行われ、現代に至っている。 教皇としてパウロ6世が1968年に発布した回勅「フマーネ・ヴィテ」は大きな論議を呼んだ。それはカトリック教会が人工的な産児制限を否定したためであった。この人工産児制限および司祭の独身性という二つの問題は、この時代に全世界で論議を呼び、教皇の頭を悩ませた。
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教会改革
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「レオ9世 (ローマ教皇)」の記事における「教会改革」の解説
登位後は乱れた教会秩序の回復のため、皇帝との協調関係を保ちつつ教会の改革に努めた。レオ9世は、ローマ教皇として教会改革にはじめて着手した人物であり、その改革はクリュニー修道院の主張から多大な影響を受けていた。レオ9世はクリュニー修道院出身者をはじめ、数多くの有能な改革者たちを教皇庁に取り込んだ。その中には、後に教皇グレゴリウス7世となるイルデブランドもいた。教皇庁の組織は強化され、数多くの修道院がローマに結び付けつけられた。 レオ9世の在位期間は5年におよんだが、その内ローマで過ごしたのは半年に満たなかったと推定される。なぜなら、レオ9世はドイツやフランスの各地において改革的教会会議(公会議)を開き、現地の司教や修道院長を集め、「倫理的刷新」を合言葉にシモニア(聖職売買)やニコライスム(聖職者妻帯)の禁止の決議をおこない、その徹底に努めたからであった。これは後のグレゴリウス改革の先駆的な営みであり、初期教会改革を代表する重要な試みと評することができる。
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