教会改革と清貧運動
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「フランシスコ会」の記事における「教会改革と清貧運動」の解説
聖者フランチェスコ(ジョヴァンニ・フランチェスコ・ベルナルドーネ、アッシジのフランチェスコ)の活動の舞台となったアッシジはイタリア半島中部ウンブリア地方の古い街市であり、フランチェスコはアッシジの富裕な毛織物商ベルナルドーネ家の長男として生まれた。若いころは放蕩生活も経験したフランチェスコは、1206年、サン・ダミアノ教会の十字架から「早く行って私の壊れかけた家を建て直しなさい」という声を聞いて決定的な回心に至り、その神の啓示どおり教会の修復から本格的な宗教活動を開始した。フランチェスコは托鉢しながら平和と愛、清貧を唱えていくうち、しだいに互いに「兄弟」と呼びあう同志が増え、12人の仲間(11人説もある)とともに「小さき兄弟の修道会」(Ordo fraterorum minororum) と名乗るようになった。12人の仲間とは、 クインタヴェッレのベルナルド カッターニオのピエトロ エジディオ サッパティーノ モリコ カンペッロのジョヴァンニ フィリッポ・ロンゴ サン・コンスタンツォのジョヴァンニ バルバロ ベルナルド アンジェロ・ディ・タンクレディ シルヴェストロ であった。集まった弟子の出自はさまざまであった。法学博士の財産家(ベルナルド)がいれば聖堂参事会の法律顧問(ピエトロ)がおり、騎士(アンジェロ・ディ・タンクレディ)もいれば、司祭(シルヴェストロ)や農民(エジディオ)もいた。この集まりはまた、当初は正式な組織ではなく、フランチェスコ自身も聖職者ではなかったが、1209年にローマ教皇インノケンティウス3世の認可を得て活動するようになった(11人説ではシルヴェストロの入会が1210年ころとなる)。インノケンティウス3世は、放置しておけばローマ教会への批判勢力となりかねないフランチェスコたちの清貧運動を、むしろ積極的に保護下においたほうがよいとの判断にもとづいて認可をあたえたものと考えられる。これにより正式な修道会となったフランシスコ会は、その後もローマ教会に対する忠誠を長くまもり続けていった。 1215年にはアッシジの有力貴族の息女でありながら、家を飛び出してフランチェスコにしたがったキアラ(クララ)を中心に、第二修道会(女子修道会)が活動を始めた。 また、1221年頃には在俗の「償いの兄弟姉妹の会」(第三会、略称OFS)が組織された。この在俗の会の創設は、フランシスコ会ならではのものであり、フランチェスコ自身の強い意向のもと創設されたものだが、歴史的にも大きな役割を演じた。 なお、12世紀以来、一般信徒のなかでは俗語訳の聖書を読み、それについて互いに語り合って信仰を深めあおうとする運動が起こっており、ワルドー派やフミリアーティはそうした新しい言葉への期待を察知して運動に応えていったが、教会はむしろワルドー派を破門に処すなど、信徒の信仰生活のなかで生まれた希求に充分に応えることのできない状況にあった。しかし、1200年前後には、ペトルス・カントールを中心とするパリの神学者たちが新しい社会からの要請に応えた司牧の神学を模索するなど、ひとつの転機をむかえていた。フランチェスコの回心とフランシスコ会の創設は、そうしたさなかにおこなわれたのであった。 1215年、フランチェスコは教皇インノケンティウス3世の主催する第4ラテラン公会議に修道士のドミニコ(ドミニクス・デ・グスマン)とともに招かれ、ローマを訪れた。フランチェスコの教会組織における位階は、最も低い助祭にすぎなかったが、彼の出席は教皇権とフランシスコ会の将来にとって大きな意味をもった。第4ラテラン公会議はまた、ペトラス・カントールらの神学に制度的な形をあたえたのであった。
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