教会政治における活躍
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「クレルヴォーのベルナルドゥス」の記事における「教会政治における活躍」の解説
ベルナルドゥスの聖性と自己節制の厳しさ、そして説教師としての優れた資質によって、彼の名声は高まっていき、クレルヴォーには多くの巡礼者が押しかけるようになった。ベルナルドゥスが奇跡を起こしたという噂が広まると、各地から病者や障害のある者がやってきて、奇跡的な治癒を願った。結果的にこの名声によって、静かな観想生活を送りたいと願っていたベルナルドゥス自身の思いとは裏腹に、世俗世界にかかわらざるをえなくなってゆく。1124年に教皇ホノリウス2世が就任した頃には、ベルナルドゥスはフランスの教会において押しも押されもせぬ存在になっており、教皇も助言を求めるほどになっていたのである。1129年、アルバーノのマテウス枢機卿の招きでトロワの司教会議に参加したベルナルドゥスは、そこでテンプル騎士団の認可が得られるように働きかけ、シャロンの司教会議ではヴェルダン司教アンリの問題を司教辞任という形で決着させることに成功し、教会政治における手腕でも高い評価を得た。 しかし教会において、ベルナルドゥスの評価が決定的になるのはむしろ、その後起こった教会分裂騒動の収拾においてであった。それは1130年に教皇ホノリウス2世が亡くなり、教皇選挙が紛糾したことに端を発している。後継にえらばれたインノケンティウス2世に対して対立教皇アナクレトゥス2世が立つという事態になり、ルイ6世(肥満王)が1130年にエタンに司教会議を招集、事態の打開を目指した。そこにおいてベルナルドゥスは、インノケンティウス2世の強力な擁護者となり、多くの論戦を戦った。ローマにはすでにフランスやイギリス、スペインなど各国の支持を取り付けたアナクレトゥス2世が居座っており、インノケンティウス2世は各地の放浪を余儀なくされていたが、ベルナルドゥスはこれを逆手にとり、インノケンティウスこそ「世界に受け入れられた教皇である」と主張した。ベルナルドゥスは教皇からの使命を受け各地を旅行した。ミラノでは高官や聖職者たちがミラノの大司教に着任することを願ったが、ベルナルドゥスはクレルヴォー修道院に戻った。そこから神聖ローマ皇帝ロタール3世との議論のためにリエージュに向かった。 1133年になると皇帝は兵を率いてローマを目指し、ベルナルドゥスは教皇の意図を受けてジェノヴァとピサの同盟を成立させた。ローマにいたアナクレトゥス2世はサンタンジェロ城を擁し、シチリア王の後ろ盾を持っていたが、ロタール3世の兵力の前にしぶしぶインノケンティウス2世との対話に応じることになった。ローマではロタール3世はインノケンティウス2世から王冠を受けることができたが、ホーエンシュタウフェン家との争いがあったため、自身の威光を高めることができなかった。ベルナルドゥスが再び召喚され、説得に向かったことで、1135年春にホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン大公フリードリヒ2世はロタール3世との和解に応じ、臣従を約束した。 6月に入るとベルナルドゥスはイタリアにやってきて、ピサ教会会議を主導した。そこにおいて対立教皇アナクレトゥス2世を破門に追い込むことに成功した。北イタリアではベルナルドゥスの影響力は絶大となっており、ミラノとロンバルディアの諸都市もベルナルドゥスの説得に応じてロタール3世とインノケンティウス2世への臣従を約束した。
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