せっきょうし 【説教師】
説教師
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説教師(せっきょうし)とは、日本仏教での説教を専門とする役職を総称したものである。各宗門で呼称には細かな違いがある。説教は仏教伝来の古より行われ、長い歴史を持つ。落語の祖「安楽庵策伝」もその一人である。
概要
ことばに抑揚をつけて行う説教(説経)は6世紀の仏教伝来以来古くから行われていたとされ、特に平安時代末期から鎌倉時代にかけてあらわれた安居院流(あぐいりゅう)と寛元年間(1243年-1247年)に園城寺の定円がおこしたといわれる三井寺流が節付説教(唱導)の二大流派として成立した[1][2]。
「説経」が、伴奏楽器を鳴らし、あるいは踊りをともなったりして説経節や説経浄瑠璃などとして芸能化していくのに対し、「唱導」の方は必ずしもただちに芸能化せず、説教(法話)のかたちでのこったと考えられる[3]。しかし、この説教と説経節・ちょんがれとが結びついて中世の「節付説教」、さらに近世の「節談説教」へと発展していった[3]。節談説教は、江戸時代において民衆の娯楽となったいっぽう、浪曲・講談・落語など近世成立の諸芸能の母体となったが、これももともと唱導が音韻抑揚の節をもっていたことに由来すると考えられる[3]。
明治期まで説教師の役割は持続し、全国各地の説教所を巡業する人気の説教師もいた。節談説教は、上述の話芸全般の母体となったが、同時にその分化が進む過程で、布教純化の点から主流派から疎まれる存在となり、昭和以降は衰亡が目立った。昭和期の名人上手に祖父江省念師がいる。
脚注
参考文献
- 五来重 著「唱導」、平凡社 編『世界大百科事典13』平凡社、1988年3月。ISBN 4-582-02200-6。
- 釈徹宗「説教と落語に関する一考察:芸能がもつ宗教牲」『相愛大学人文科学研究所研究年報 第5巻』相愛大学人文研究所、2011年3月。
- 関山和夫監修、谷口幸爾『「節談」はよみがえる -やはり説教は七五調』白馬社、2004年12月。 ISBN 978-4938651442。
音声資料
関連事項
説教師
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「コンラート・フォン・マールブルク」の記事における「説教師」の解説
コンラートの記録が最初に見られるのは、1214年に行った説教についてである。史料には「マギスター」(学者)や「修学者」としてしばしば言及されており、おそらく大学、しかもパリ大学で学んだものと思われる。コンラートが最初に活動したのがエルザス地方であったこともそれを裏付けていると思われる。後にラインラントやテューリンゲンに移り、十字軍に参加するよう群衆に呼びかける説教を野外で行い、新たな十字軍運動への機運を高めた。 1215年、ローマ教皇インノケンティウス3世から、ドイツの聖職者の生活態度や信仰を改善させるよう指導する権限を与えられた。熱心な活動を通じてテューリンゲン方伯領を治めるルードヴィング家と親交を結ぶようになったため、同家に嫁いで来たハンガリー王女エリザベートの師父に任ぜられた。コンラートはエリザベートに対して敬虔に生活するよう厳しく指導した。さらにコンラートはテューリンゲン方伯ルートヴィヒ4世を神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が行う第6回十字軍に参加させることに成功した。さらにコンラートは、十字軍に従軍して不在となったルートヴィヒ4世に代わりテューリンゲンの宗教指導者となった。
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