説教強盗の登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 03:01 UTC 版)
1926年(大正15年)各方面への金策もつき、金に困った松吉は7月30日、黒川健三宅および岡部ひさ宅に侵入。初めは失敗することもあったが、やがて堰を切ったように盗みを重ねるようになる。翌1927年(昭和2年)5月5日家守康宅に侵入した際、住人に戸締まりの甘さを注意したり犬を飼うよう忠告したことなどから、東京朝日新聞の伊東尽一記者(一説には三浦守(後に作家の三角寛となる)記者とも)によって「説教強盗」と命名され、通称となった(三角はこの事件で犯人が山窩(サンカ)出身ではないかという風評が起こったことで、終生サンカとの関わりを持つようになる)。これを受け、この年から警視庁は説教強盗をブラックリストに載せ、10月5日に逮捕へ向けた大評定を開いている。ただし、警視庁は当初、前年の犯行は把握しておらず、同年からの犯行と見ていたため、捜査が滞る原因となる。いっぽう松吉は11月に区内雑司が谷に転居していた。 その後も翌1928年(昭和3年)夏から秋にかけてたびたび説教強盗が出没し、帝都市民を恐怖に陥れた。この頃になると、松吉の犯行をまねた模倣犯も現れるようになった。松吉は8月に巣鴨へ戻っている。
※この「説教強盗の登場」の解説は、「妻木松吉」の解説の一部です。
「説教強盗の登場」を含む「妻木松吉」の記事については、「妻木松吉」の概要を参照ください。
- 説教強盗の登場のページへのリンク