浪曲とは?

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ろう きょく らう- [0] 【浪曲】

浪花節なにわぶし 」に同じ。大正6年頃から使われた。

浪曲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/28 07:21 UTC 版)

浪曲(ろうきょく)は、明治時代初期から始まった演芸で「浪花節」(なにわぶし)とも言う。三味線を伴奏にして独特の節と語りで物語をすすめる語り芸。一つ30分ほどである。戦後の隆盛後、落語、講談、浪花節と並び称された3演芸のうち、急速に衰えた[1]。 




  1. ^ 「荷風と音楽」『季刊芸術』12(3)p.111
  2. ^ 伝統邦楽界では一般的である「家元制度」に象徴される分派主義(杵屋正邦「一邦楽系作曲家の体験的発言」『科学と思想』1976(10)p.322とは様相を異にしている
  3. ^ 現代人からすれば「歌う」であるが、詳しくは語りものの項に説明があるので参照のこと
  4. ^ 浪曲師と曲師がどう呼吸を合わせて演奏しているかは国本武春『待ってました名調子!』に詳しい。東家みさ子p.46-54、岩崎節子p.96-99、沢村豊子の項p.100-103などを参照のこと
  5. ^ 相三味線は歴史的に配偶者、つまり女房が多かった。かなり比率は減っているが、今も東家一太郎に東家美など例はある。
  6. ^ 現代に向かっていく中で、高野東海や山本太一など男性の高名な曲師もおり、また曲師不足に起因するフリー曲師の増加もあり、現在は組合せに特別なものはない
  7. ^ 『日本浪曲史』南北社版(1968年刊)p.373(中川明徳による補章)は、天龍三郎がギター奏者をつけ始めたことを批判的に書いており、その頃より始まり一手法として京山幸枝若など上方に定着した様子が伺える
  8. ^ 正確には、よく言われるような(理想的な)浪曲師の声としてのシオカラ声・しわがれ声・ダミ声は誤り。
  9. ^ 現在の西洋音階が絶対視される状況に於いての「美声」とは違う
  10. ^ コピー芸という批判的な文脈が未だ使われる。出典:『東京人』380号p.43-46
  11. ^ メリスマは正確には誤記のため、止めたと思われる。(前著からの変化点)
  12. ^ 虎造節は、時の試練を越えて保存会が結成・活発な活動がなされている
  13. ^ 音声ファイル 32分00秒付近
  14. ^ BGM 国本p.11
  15. ^ 一話を一段と呼ぶ
  16. ^ 「本日のお外題は」という形で演題名を紹介することも多い
  17. ^ 読みのみ一定していて、表記に揺れが見られる場合はカタカナで表記するルールに基づく
  18. ^ 主に歌舞伎大向う義太夫の慣習からの移行と考えられる
  19. ^ もちろん例外もあり、雲右衛門は入道姿で舞台をこなした例、同様に東武蔵や玉川勝太郎が袈裟姿で高座をこなした例もある。
  20. ^ 更に浪曲大会などの格式張った舞台になると、テーブルの両サイド、離れた位置にさらに小さなテーブルを置き、松の盆栽を置く
  21. ^ 関西では一風亭初月、関東でも沢村豊子・佐藤貴美江・玉川みね子が、時おり出弾きを披露する
  22. ^ 三味線を持つ曲師は、ついたて無しに右隣に座る
  23. ^ 落語家との共演が多い玉川太福がテーブル掛けを座り高座用に畳み、披露している。
  24. ^ 浪曲作家は浪曲史研究家を兼ねるケースが非常に多く、その著作数は多い
  25. ^ 戦前はこちらが詳しい
  26. ^ キネマ旬報年間ベストテンには、戦前に浪曲でもおなじみの主人公の映画がいくつかランクインしているが、「浪曲映画」は戦前戦後を通して一つもランクインしていない。参考サイト
  27. ^ 浪曲そのままのタイトル、浪曲師でもある2代目友衛のヒット曲であるが、歌謡浪曲の特徴は備えておらず、その点もあってか浪曲の範疇には取られないことが多い
  28. ^ いずれも1クール(3ヶ月)程度の短いもので、テレビでも人気が定着したとは言い難い
  29. ^ 「雲右衛門の弟子で雲太夫といった人が、(柳亭)左楽さんの門下になって、信楽を名乗った。本名を鈴木政吉という。今西の正蔵がこしらえた『墓誌』に出ております」出典:三遊亭円生『寄席切絵図』(桃中軒雲太夫といえば東家楽燕のことであり、おそらく芸談の類であろう)
  30. ^ 『痴遊雑誌』に転載された「浪花節漫語」の上欄、北村大巴(浪花容峰)の寄稿にもあるように、古くから関西で「浪花節だから浪花(大阪)」と単純化をする傾向が見られる。出典:『痴遊雑誌』復刻2巻p.882
  31. ^ 東西の境を超えた巡業的屋に似て少ない。出典:『テキヤはどこからやってくるのか?』ISBN 978-4334037956。p.21
  32. ^ 『日本吹込み事始 1903年ガイズバーグ・レコーディングス』にも「うかれぶしさわぎ」という名の今の浪花節とは別の音曲(演者・立花家圓左衛門、富士松ぎん蝶)の収録がある。同じ演者にある「浮世節」の別称であろう
  33. ^ 同時期に寄席に登場したオッペケペーの浮世亭○○こと川上音二郎娘義太夫などと比べても明らかである
  34. ^ 現在の上野駅構内。1882年(明治15年)11月に閉鎖される
  35. ^ 明治期に入り火除地となる。明治23年には日本鉄道の貨物駅用地となる
  36. ^ 采女橋脇に空き地があった
  37. ^ 今の新橋駅日比谷口近辺
  38. ^ 佐竹藩の屋敷跡。現在の台東区台東 『竹町の人とくらし(台東区文化財調査報告書 第18集)』 台東区教育委員会文化事業体育課、1995。
  39. ^ 本所の津軽藩屋敷跡。今の墨田区緑図書館の近辺
  40. ^ いずれも後に周辺に寄席が出来ている
  41. ^ 中村幸彦1983p.300
  42. ^ 明治5年とする石谷華堤説と明治10年以降とする平林説が主にある。全容については芝清之『浪花節 東京市中・寄席名及び出演者一覧』の冒頭を参照のこと。しかしながら「遊芸稼人」の歴史における重要な明治8年刊『諸芸人名録』に浪花節の名はなく、それ以降に結成されたと具体的に推定できる
  43. ^ 節談説教の演目と重なり、その影響が伺える
  44. ^ 東京・神田・市場亭、浅草雷門・新恵比寿亭が共に開場するのが明治25年。 出典:芝清之『浪花節 東京市内・寄席名及び出演者一覧』
  45. ^ 芸人同士の深刻な対立ではなく、合併興行をする場面も多くあった
  46. ^ 後のドーナツ盤レコードの前
  47. ^ 実際には今でいうブレーン的役割を果たした
  48. ^ この上京の前、佐世保での公演後に二人は別れ、宮崎は「白浪庵滔天」の名を芸名としても使い、後に伊藤痴遊一心亭辰雄と関西巡業している
  49. ^ 『警視庁統計書』によれば当時1904年の東京市内の寄席は135軒。1日あたりの平均客数は昼席45人、夜席73人。それに対し、東京市内の劇場は大劇場が7座、小劇場が12座存在し、1日あたりの平均客数429人で一幕見を加えると、719人 出典:上田学『日本映画草創期の興行と観客』早稲田大学出版部、2012年3月30日。ISBN 9784657120045 p.70
  50. ^ 落語「夕立勘五郎」
  51. ^ 活動写真大流行「戦争後は火が消えたような活動写真がにわかに復活し、市内至る所に楽隊の囃子賑わしく、興行場はどこも大入り大繁盛。(中略)芝居に飽き、寄席に飽き、浪花節に飽き果て」た結果である。と書かれる状況になる。原典:『東京朝日新聞』1908年8月24日。出典:『近代芸能芸能年表 下』2013年7月25日p.188
  52. ^ 背景には、浪花節がその社会的地位を一足飛びに上げていく中で、そのネタ元として、講釈師の高座やその速記本を大いに利用していたこともある
  53. ^ 『講談社の90年』には、明治44年「講談倶楽部」創刊号には「浪花亭重松」で速記掲載があったが、問題の大正2年の増刊「浪花節十八番」発売記念の浪花節芸者大会に「木村重松」で出演していることが確認できる
  54. ^ 一部で定説化した「大正6年12月20日付の「都新聞」紙上で初めて使用された」という事実は無いが、直後の年明け大正7年1月3日付には同紙上で記述を発見できる。関西でも大正9年8月18日付の大阪毎日新聞にある。その頃既に浪曲の世界を「浪界」と呼ぶ記述は見られ、「浪界」の初出は明治41年6月15日福岡日日新聞よりは以前。以上は芝清之『新聞にみる浪花節変遷史』明治編、大正編でも確認可能
  55. ^ 当時、流行していた天才少年浪曲師が楽屋に増えた事に対する言葉だという異説あり。
  56. ^ 二代目東家楽遊の浜町御殿や鼈甲斎虎丸の中野御殿、また、初代雲月の唐津の大邸宅の一帯が「雲月町」と呼ばれていた例、戦後に寿々木米若の伊東温泉割烹旅館「よねわか荘」など。また、大和之丞(二代目奈良丸)が中心となって1935年(昭和10年)京都で大石神社を創建した例がある。
  57. ^ その様は、梅中軒鴬童『浪曲旅芸人』などに詳しい
  58. ^ 日蓄は内憂(ラジオの脅威)外患(電気吹込という新システムを利用した外国レコードの参入)を抱えていた。出典:『昭和演歌の歴史』p.74欄外
  59. ^ なお次項に「俚謡」の部があるが、端唄小唄の部に「鴨緑江節」「汐来節」「仙台節」「木曽節」「大島節」などが混載されている
  60. ^ 吉川潮『江戸っ子だってねえ 浪曲師廣澤虎造一代』日本放送出版協会。1998年10月24日。ISBN 978-4140053089。「第7章 血煙田島町」p.168-189
  61. ^ 戦後に日本文化放送(今の文化放送)(当時はキリスト教会の意向が強く反映された局であった)開局の際、浪曲を番組に採るか否かで論争が起きた。結局、浪曲番組は開局時から放送することで決着する
  62. ^ またこう書く人もいる。「日本はポツダム宣言にもとづいて連合国に占領されることになった。(中略)天皇自ら天皇の人間宣言を行い、平和主義に徹し(中略)昭和20年9月13日、GHQの民間情報教育部(局)からの通達につぎのような内容が含まれていた。『尚演芸放送に関しては地方放送に於ても実施するを認められ居るも之が取扱に付ては当分の間純娯楽的なるものを主とし講談、浪曲、放送劇等に於ても軍事的好戦ものはなさざること』」p.238「この占領政策によって、義理人情や義侠の精神などの日本固有の価値観が否定された。浪曲はこの急速に衰退することになった。だが、戦前、戦中を生き抜いてきた日本人の価値観がそう簡単に消え去るものではなかった。日本人の底に流れる心情の世界を代弁する浪曲・浪花節はやがて、流行歌の形式を借りて新境地を開拓し義理人情の世界を表現するようになる」p.239欄外『昭和演歌の歴史』戦後の民放ラジオによるラジオ浪曲ブームを軽視し、敗戦とともに浪曲は終わった、とする立場
  63. ^ 流しであるが、小沢昭一『日本の放浪芸』p.352-354
  64. ^ その間、入門者がいなかった訳ではないが、浪曲界に居続け、大成した者はいない
  65. ^ 多くの一門芸脈(鼈甲齋など)の消滅に悪影響は現れている
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  1. ^ 出典:小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』「浪曲」秩父久方
  2. ^ 日本浪曲協会主催で度々開かれる大会等イベントは「笑う浪花節vs. 泣く浪花節」
  3. ^ 『東京人』380号。p.16
  4. ^ または浪曲家(ろうきょくか): 三波美夕紀『昭和の歌藝人 三波春夫――戦争・抑留・貧困・五輪・万博』さくら舎、2016年5月14日。 ISBN 9784865810523。p.25
  5. ^ 国本。p.43-44
  6. ^ エーピーピーカンパニー『江戸東京芸能地図大鑑』付属冊子。p.23
  7. ^ 稲田2014。p.123
  8. ^ 山折哲雄「『歌』の精神史 第3回 浪花節と演歌」『中央公論』2005年7月号
  9. ^ 「一時期はこの国の大衆演芸のトップを占め、黄金時代とよばれる全盛期を、なんどもくり返しつかんだことの浪花ぶしなのに、この国の知識人からひどくうとまれさげすまれて来た浪花ぶしである」大西。p.8
  10. ^ 稲田2014。p.122。主に雲右衛門、楽燕の亜流による「義士伝」「乃木将軍」などの押しつけがましさによると推測されている
  11. ^ 定本p.26.
  12. ^ 定本 p.25.
  13. ^ 定本p.26.「文反故」
  14. ^ 墨東奇譚に浪花節嫌いを明言
  15. ^ a b 「日本から抹殺すべきもの」アンケートに浪曲と回答『群像』1950年2月号 出典:唯1999年。p.326
  16. ^ 「アンツルさんの師匠の久保田万太郎先生は『私は浪花ぶしといふものが大嫌ひである』と明記(以下略)出典:大西。p.10
  17. ^ 定本p.26.
  18. ^ 『昭和十年生まれのカーテンコール』ISBN 9784864880367
  19. ^ 『清水みなとの名物は―わが心の劇団ポートシミズ』
  20. ^ 「浪花節の主要なテーマに『義理人情』がある。『義理人情』は、社会生活の喜怒哀楽を生み出す源泉である。(中略)既存の人間関係を保持しようとする〈義理〉と、積極的に他者と関わり、思いやることをすすめる〈人情〉を両立させようとする登場人物の言動は、しばしば感動を引き起こし、涙を誘う。浪花節の物語、特に『義理人情』をテーマとするものには、逃避できない日々の暮らしの中で耐え忍び、なんとかして生きていく人々の姿がえがかれる。なかでも〈義理〉は様々な拘束を生みだす。受動的なきっかけにより生じた〈義理〉は、定着後、人の言動をコントロールしてゆく。」真鍋2017 p.161
  21. ^ 出典:デジタル大辞泉
  22. ^ 例:SF作品も本質は意外に浪花節なのではないかと思いました。プロダクション・アイジー石川光久社長インタビュー 日経MJ2017.01.04
  23. ^ 例:しかし、熊本県立大理事長の五百旗頭(いおきべ)真氏(近代日本政治外交史)は昭和天皇の考え方を「浪花節」と例える。「退位させるのは責任があったからであり、責任があった私人となれば戦犯のナンバーワンとして引き出される」と話す。木戸の「封印」は当然だった。毎日新聞2017.01.05 「考・皇室:憲法と歩む/7」東京朝刊3頁
  24. ^ 例:音楽、主人公たちが歩く街の情景、浪花節的に片づいたりしない人間関係。さまざまな場面に独特の乾いたにおいがふっと漂う。読売新聞2017.01.27[映画]破門 ふたりのヤクビョーガミ=松竹ほか 味のある「迷コンビ」東京夕刊11頁
  25. ^ a b c 小沢昭一『日本の放浪芸』p.361
  26. ^ 広沢龍造編『独習で上達する浪曲の習い方』http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2477920
  27. ^ 日本が誇るエンターテイメント「浪曲」を世界へ! 浪曲師・春野恵子がNY公演にチャレンジ!-世界を変えるクラウドファンディングサービスCOUNTDOWN
  28. ^ 内山惣十郎『浪曲家の生活』p.232ー233.
  29. ^ 国本p.136
  30. ^ 『まるごと三味線の本』p.117
  31. ^ 出典:『上方伝統芸能あんない』浪曲の章p.89-102。
  32. ^ 出典:『上方演芸大全』p.295
  33. ^ 明治・大正期は男性の浪曲師が女性浪曲師より多かった。演題の多くは男女の区別なく共有され、男性中心の史観で事足りた。真鍋2017 p.227
  34. ^ 『東京人』380号p.20-21
  35. ^ 玉川太福が2015年、シブラク創作大賞を受賞
  36. ^ 「平成の浪曲時代がやってきた!」『東京人』380号p.12
  37. ^ 日本経済新聞 2017年5月8日夕刊16面 https://style.nikkei.com/article/DGXKZO16000770S7A500C1BE0P01?channel=DF280120166618
  38. ^ a b 「『浪曲は死んだ』から2年、木馬亭には若い女性客が増加」週刊ポスト2017年9月15日号 http://www.news-postseven.com/archives/20170906_609669.html
  39. ^ 真鍋2017p.6
  40. ^ 秩父重剛『浪花節大全』冒頭
  41. ^ コロニア浪曲
  42. ^ この特徴的な声については、『日本の古典芸能 9 寄席』p.44に中村幸彦による説明がある。
  43. ^ 国本p.70
  44. ^ これはただただ怒鳴る。そうしてカラカラに声を枯らしてしまう。そこをいよいよふた調子も三調子も張り上げて、血を吐く思いで歌いつづける。すると枯れがれに枯れつくした底の底のまた底の方から滾滾と美しい声の泉が噴き上げて来る。即ちそれが、自分の研がれ、磨かれ、鍛え上げられたほんとうの「声」なのだ。-正岡容『日本浪曲史』南北社版 p.357-358
  45. ^ ジャンルは違うが、以下一例。「すると先生は「まず声の訓練をせよ」とおっしゃいました。ごうごうと落ちる滝、ざあざあと流れる川、どうどうと打ち寄せる波、そういうものに向かって、それらの音に敗けない声でお経をせよ。三日か四日で声はつぶれるが、それでも出ない声でやる。そのうちのどから血が出る。それでもまだやる。そうして三十日か四十日たったころに何日も何日もしゃべっても決して枯れない声になる。本格的な布教師になるならば、それに耐える努力をしなければならないがどうか、というわけです。」-祖父江省念『節談説教七十年』p.69
  46. ^ また、声をよくするためにナメクジを呑み込む話は広沢瓢右衛門などがしている。出典:『悪声伝』
  47. ^ 「『台詞の不味い』という点では『両横綱』であった米若と春日井梅鶯について、房前は『タンカを吹き飛ばしてお釣りの来る』ような『素晴らしい』声とフシを二人はもっていたと評している」真鍋2017p.85
  48. ^ 国本p.167
  49. ^ 『うなる』。p.27-29
  50. ^ 北川純子は現役の曲師でもあり、東西の寄席に出演している。おもな発表論文に北川純子. “関東節の浪曲における三味線 (PDF)”. 2014年4月25日閲覧。大阪教育大学
  51. ^ 北川純子. “日本音楽における「間」概念の検討―浪曲三味線の現場から― (PDF)”. 2014年4月26日閲覧。(大阪教育大学)がある
  52. ^ 『うなる』p.25
  53. ^ ワッハ上方『上方演芸大全』p.282
  54. ^ 『にっぽん芸能史』p.
  55. ^ 『まるごと三味線の本』p.117-118
  56. ^ 出典:三波春夫『歌藝の天地』
  57. ^ 正岡容『日本浪曲史』南北社版 p.342-343 もそれを裏書きする
  58. ^ 『まるごと三味線の本』p.117
  59. ^ 『うなる』p.8
  60. ^ 『昭和の歌藝人』p.25
  61. ^ 大西p.11
  62. ^ 唯1999.p374 「関東ではケレン読みは天下を取れないといわれた。しかしケレンも立派な芸であり、特にケレン読みの少ない現在、再認識されるべきである。」
  63. ^ 国本p.11
  64. ^ 安藤鶴夫「巷談本牧亭」(1964)にも記載あり。
  65. ^ 大西p.14
  66. ^ 国本p.82
  67. ^ 瓢右衛門ブームによって浪花節の断末魔にポッと灯がともったようであるが(中略)傍流も傍流だったケレン浪曲―滑稽味、諧謔味のつよい、いわば都会的センスの浪花節だったからである。出典:小沢昭一「浪花節と私」『うなる』p.40
  68. ^ 「飄右衛門さんの語る明治ネタの滑稽浪曲は大阪でも東京でも大いに受けて、これでまた浪曲が息を吹き返すのではないかとふと思った程だったが」大西p.17
  69. ^ 稲田2014p.
  70. ^ 『上方演芸大全』p.299
  71. ^ 大西信行『浪花節繁昌記』p.76-77
  72. ^ それを逆手に取ったのが、京山幸枝若の巧みな芸であった。実際には無いのに「この後続きはレコードで」などがある。出典:国本p.84
  73. ^ 国本p.174,付属CD『待ってました 名調子!』題名通りに掛け声講座あり。
  74. ^ 国本武春がイベントでサングラス姿やクマのプー太郎に扮した例さえもある。国本p.116,121
  75. ^ 国本p.136
  76. ^ 芝居における引幕、落語における後幕、相撲の化粧回しと同じくファンが浪曲師に送る物があり、寄贈者名が記してある事が多い。浪曲師個人で所有。国本p.137
  77. ^ 曲師を隠すのは、明治時代活躍した桃中軒雲右衛門が、曲師をしていた美しい妻を観客が狙わないように隠したことに由来するという俗説があるが、実際にはそれ以前に美当一調が始めた 出典:安田宗生編『美當一調・桃中軒雲右衛門関係新聞資料』
  78. ^ 最初は釈台を使ったが、後には釈台もなく語った 出典:唯1999。p.169-170
  79. ^ チラシにある個人宅に後見役として行くと、6畳二間続きにタンスがあるような普通のお宅。福太郎の口癖は「こっちから出掛けて行かなきゃ~」 国本p.89-91
  80. ^ 国本p.155
  81. ^ 「ネタを 借用」『東京人』380号p.54 リード部分。
  82. ^ 国本p.155
  83. ^ どの組織にも属さない一匹狼がやくざ世界のしがらみの中でがんじがらめになりながらもなお意地を貫き通して生きていく。決して颯爽としたヒーローではない。世間に逆らい、苦しみながらそれでも旅鴉の生き方をまっとうしようとする。その傷だらけの姿が胸を打つ。p.6.一匹狼の渡世人が、清純で無垢な女のために命を賭ける。これが股旅もののパターンになる。p.14.股旅ものは長谷川伸にはじまるという。p.6川本三郎『時代劇ここにあり』平凡社、2005年10月1日。ISBN 9784582832693
  84. ^ 京山若丸作。広島県矢野村に住む貧しい小作農夫、松岡のもとに召集令が下り、病気の妻と幼子2人を残し戦地へ。周囲は冷たく、高利貸に罵倒されて誰の助けもなく、仕事先の組頭にも残す家族の世話を断られる。妻は夫の心残りを察して、2人の子供も殺して自分の元へ送ってくれと書き遺して自殺していた。悲しみのうちに松岡が子供に手をかけようとする間一髪、ただ一人の理解者である警官が飛び込んで松岡を諭す。様子を聞いていた高利貸も飛び込んで非を詫び、松岡は出征していく。日露戦争後の社会の疲弊と成金の出現を痛烈に批判した全く架空の話だが、そのリアルさゆえモデルの松岡を名乗る男ができるほどヒット。関東では東家楽燕、関西では天光軒満月がそれぞれ脚色して受け継ぐ。出典:ワッハ上方『上方演芸大全』p.292欄外
  85. ^ 二代目雲月が本格的なスターダムにのし上がったのは1935年(昭和10年)に発表した「杉野兵曹長の妻」であったといわれる。1935年夏に台本が書き下ろされ、秋に発表されたと記されている。その後、時をおかずに、1936年1月分新譜として「銅像を涙で洗う女 杉野兵曹長の妻」(テイチク1765-68)が発売されたと推測される。 真鍋2017 p.230
  86. ^ 唯1999 p.270-272
  87. ^ a b c ワッハ上方編、織田正吉「漫才」『上方演芸大全』p.58
  88. ^ 事実関係は『東京人』380号p.22-23 リード文が「歌謡浪曲の村田英雄と三波春夫」
  89. ^ 稲田2014。p.186
  90. ^ また関東においても、三門博玉川福太郎などがレコードを出している
  91. ^ 矢野誠一『昭和の演藝二〇講』p.148
  92. ^ 「芸人」を「芸能人」というようになったのは、たしか戦前の昭和十五、六年ごろだったように記憶している。時の情報局が考え出したように思うから、つまり’’官製語’’である。‘‘芸’’と’’人’’の間に‘‘能’’が加えられたからといって、たちまち有能になったわけもあるまいが、そそっかしい芸人は芸能人とよばれることで、ハクがついたように嬉しがった者もあったらしい。出典:高橋博『大衆芸能』教育史料出版会、1980年。p.3
  93. ^ 「以降、浪花節は、ほかの演芸を圧して人気はうなぎのぼり(中略)まさに大衆芸能の王座を占めており 」小沢昭一『ものがたり芸能と社会』白水社、1998年11月。ISDN 9784560039885。p.201
  94. ^ 朝日放送の浪曲の項目には「浪曲と同根のものである河内音頭は」とある。放送演芸史p.188-189
  95. ^ また関西テレビの節に浪曲ジャンルの出演者として鉄砲光三郎も入れられている。放送演芸史p.297。なお、章末の放送演目一覧表には独立して「音頭」の項目がある放送演芸史p.314
  96. ^ 『まるごと三味線の本』p.146
  97. ^ 現在でも時折、定席以外の場で見られる。出典:『上方伝統芸能あんない』浪曲の章、『待ってました 名調子!』、『浪曲定席 木馬亭よ、永遠なれ。 芸豪烈伝+浪曲日記』
  98. ^ コラム:節劇|大衆芸能編・寄席|文化デジタルライブラリー
  99. ^ a b 『大衆演劇お作法』ぴあ株式会社、2004年3月6日。p.69
  100. ^ 古く雲右衛門以前の1897年(明治30年)には高松で市川小円次。広辞苑第6版「浪花-節-芝居」
  101. ^ 澤田隆治「昭和三十年代、ギャグの基盤に浪曲があった。」『東京人』380号p.67
  102. ^ 稲田2014。p.247
  103. ^ 戦中である1943年(昭和18年)末に発表された大日本興行協会の全国統計によると、浪曲専門の一座は255座、浪曲・漫才の座は49、浪曲及び舞踏は4、浪曲劇専門は41、時代劇と浪曲劇を併演するものは12。出典:『実録 浪曲史』p.118 ★要確認
  104. ^ 林正之助によれば1935年(昭和10年)吉本はJ.O.スタヂオ及び日活と提携し、寿々木米若、篠田実による浪曲トーキーを公開した:出典『上方笑芸の世界』「宮川左近ショー」p.124
  105. ^ 同年芸術祭賞受賞 (PDF)
  106. ^ 浅沼圭司他編『新映画事典』美術出版社、1980年9月20日。佐藤忠男「日本映画の体質」p.370
  107. ^ 「トーキー初期には、ジャズを取り入れた映画が作られるいっぽう、浪曲映画も盛んに作られた。浪曲は要所要所がフシがついた語りになっている語りものである。さらにまた、西洋音楽の形式はとっているが感覚的、内容的には伝統的な語りものに近いと考えられる歌謡曲が発達し」出典:佐藤忠男『増補版日本映画史1』岩波書店、2006年10月6日。p.12
  108. ^ 出典:『実録 浪曲史』、ムービーウォーカー、jmdb日本映画データベース
  109. ^ 稲田2014p.187
  110. ^ 『歌藝人』p.192
  111. ^ 都はるみの「唸り」は弘田三枝子の演歌調ジャズヴォイスの影響を受けたオリジナルな唱法である。菊池清麿『昭和演歌の歴史』p.309
  112. ^ 以上、「六〇年代――歌謡曲・演歌の時代」p.291-326『昭和演歌の歴史』を
  113. ^ SPレコードレーベルに見る 日蓄-日本コロムビアの歴史には、京山小円奈良丸の写真入りレーベルが納められている。写真入りレーベルは本文中にもあるようにセールスが確実に見込める限られた物だけ発行された
  114. ^ 浅草・イサミ堂のページには浪曲演者一覧があり、より深く浪曲を知りたい人には便利である。
  115. ^ 浪曲(ろーきょく)と(河内、江州)音頭(おんど)で「ローオン」である。出典:『日本一あぶない音楽 河内音頭の世界』p.193
  116. ^ 本調子であり、浪曲とは異なっている
  117. ^ 石田信夫『安来節』中国新聞社 1982年 p.201-
  118. ^ 津軽三味線に明治期テーブル掛けがあった記述は国本p.111
  119. ^ 芝清之の労作「浪花節 ラジオ・テレビ出演者一覧」を参照のこと
  120. ^ 内山惣十郎『浪曲家の生活』p.46ー77などにスポンサーの盛衰(日本電建他)含め詳しく載っている。
  121. ^ 唯1999。p.108-109,228ー231「ラジオの専属契約」
  122. ^ 当時ラジオからテレビのディレクターに転じた澤田隆治の証言。「昭和三十年代、ギャグの基盤に浪曲があった」『東京人』380号p.66
  123. ^ 司会の芦川淳平が書いた「浪曲の神髄」に放送リストがある。
  124. ^ スポット
  125. ^ 浪曲の世界ではまず先人の節まねから入り、徐々に自分の節使いを創造していくのが常道である。節まねは特別なものでなく、今でも二代目東家浦太郎など、高座の余興で披露する場合がある
  126. ^ 得意は木村重松木村重友初代港家小柳丸など 出典:桂文楽『あばらかべっそん』
  127. ^ 大正10年に浪曲から落語家に転じ、没年昭和2年3月2日。出典:『古今東西落語家事典』。
  128. ^ 朝日新聞1926年(大正15年)8月5日朝刊5ページにも記事あり。
  129. ^ 井上宏編『放送演芸史』世界思想社 1985年
  130. ^ 元は浪曲「清水次郎長」の本座村の為五郎のタメゴローである。澤田隆治『東京人』380号p.67
  131. ^ 高田文夫『東京人』380号p.22
  132. ^ yahoo知恵袋に投稿された「浪曲の出てくる落語をおしえてください」
  133. ^ 浪花節の粗探しで、昭和初期の新作。戦後はやらなかった。保田武宏『志ん生全席 落語事典』大和書房、2008年1月25日。p.251
  134. ^ 『談志百選』p.390-391には広沢瓢右衛門から「鈴が森」「佐野山」他の稽古をつけてもらったことを書いている
  135. ^ 瀧口雅仁『落語を観るならこのDVD』ポット出版 、2009年11月7日。ISBN 978-4780801316
  136. ^ 平岡正明『快楽亭ブラックの毒落語』彩流社, 2009年。ISBN 978-4779114601。p.7 なお、この演目は明治の講釈師伊藤痴遊が作ったものを瓢右衛門が蘇らせた
  137. ^ ワッハ上方『上方演芸大全』p.226
  138. ^ 双葉社 (1980/2/5)ASIN: B01LTHZ7W8
  139. ^ 『香具師の旅』河出文庫978-4309407166に収録
  140. ^ 『まるごと三味線の本』p.146-148
  141. ^ 雲右衛門は凱旋の頃にはフシを関東節から九州の芸も取り入れ、関西節の低調子に切り替えた 出典:ワッハ上方『上方演芸大全』p.287
  142. ^ 内山惣十郎『浪曲家の生活』p.8 木魚を用いてリズミカルに歌うのが、とくに阿呆陀羅経といわれた
  143. ^ 大西信行『浪花節繁昌記』
  144. ^ その源流として古くから伝わる節談説教声明。さらなる源流として大陸伝来の京調(きょちん)、打鈴(だいしん)出典:三波春夫『歌藝の天地』p.
  145. ^ 内山惣十郎『浪曲家の生活』p.9。内容は尽くし物や芝居の段物、「色里名寄せ」「役者づくし」「小春紙治紙づくし」「鎌倉山(佐野の隠れ家)」「女盗賊(笠松峠)」「尾張源内(明石鉄砲)」「巡礼殺し(八鬼山峠)」等がある
  146. ^ ワッハ上方『上方演芸大全』p.284。浪曲の章は執筆:芦川淳平
  147. ^ 出典:倉田喜弘『芝居小屋と寄席の近代―「遊芸」から「文化」へ』p.152
  148. ^ 中村(1983)p.302-303。なお、1)蝶浮連節=浮れ節=チョンガレで興行届を同じ代表が書いている。2)届けに浅草在の「浪花節」の鑑札の写しがある(届けの年月日不明)
  149. ^ 江戸東京で「ウカレブシ」の呼称では駄目な理由をきちんと説明した文献は関東側には一つとしてなく、雑誌『上方』144号(1943.(1))の「関西浪花節の今昔」に「江戸名物の都々逸、大津絵、甚句、などが『浮かれ節』として」あったためとあり、これが明確な説明である。出典:『日本近代歌謡史』p.2258-2260。
  150. ^ 異説として、神田橋の寄席「渡辺亭」 出典:高橋博『大衆芸能』p.95
  151. ^ 1873年(明治6年)には両国広小路の見世物小屋が禁止された 出典:海野弘『東京の盛り場』(2000)p.22
  152. ^ 唯1999。p.4-6
  153. ^ 唯1999。p.26
  154. ^ 原典:大我居士『貧天地飢寒窟探検記』飢寒窟編p.14 出典:上島敏昭「仇討ちのドラマトゥルギー―浪花節の忠臣蔵をめぐって―」『芸能』33(12) p.30
  155. ^ 唯p.9 「雲入道一代」二六夕刊1912年(大正元年)8月27日 - 9月4日まで7回?6回連載。確認済
  156. ^ 『上方芸能』(136)p.28
  157. ^ 出典:近代日本芸能年表・上 p.95。萬朝報他、読売新聞など当時の在京紙の多くの紙面に残っている。
  158. ^ その場に実地見学でいた一心亭辰雄の回想録によれば、講談の邑井貞吉が南部坂をやったという。(上記新聞記事に講談の出演記載無し)駒吉は「仙台の鬼夫婦」を演った。出典:三好貢編『浪花節一代』朋文社、1957。JP番号:58000659 p.63-65
  159. ^ 吉川潮『江戸っ子だってねえ 浪曲師廣澤虎造一代』1998年刊によれば、明治26年。柳亭左楽を筆頭に落語・講談連合から開催に強硬に反対する意見が出たが、円遊の仲介で手打ちになったというp.22
  160. ^ 「○猶敗北の例をいはば、浪花節といふもの、都の中央にては大ろじといふに折々かかるのみなりしが、この程は宴席の余興にも召されて、これが寄席に旦那様奥様の黒の羽織を見ること、敢えて珍しからずと聞く。」発表は『太陽』明治30年10月号。確認済。出典:坪内祐三編『明治の文学 15 斎藤緑雨』筑摩書房 2002年p.410
  161. ^ 大円朝こと三遊亭圓朝も出演した大店である 出典:三遊亭圓生『寄席切絵図』
  162. ^ 1885年(明治18年)3月下席には早くも美弘舎東一、浪花亭駒吉が出演している。出典:芝清之『浪花節 東京市内・寄席名及び出演者一覧』
  163. ^ 万朝報1900年(明治33年)10月13日付 出典:兵藤『<声>の国民国家・日本』 確認済。
  164. ^ 『うなる』p.106
  165. ^ 大西信行『浪花節繁昌記』によれば明治24年
  166. ^ 浪花亭駒子(一心亭辰雄)の回想録 出典:『浪花節一代』p.24-25,70-71
  167. ^ 活動写真の日本初は1896年(明治29年)11月17日
  168. ^ 松竹株式会社『歌舞伎座百年史 資料編』p.53
  169. ^ 安田宗生 編『美當一調・桃中軒雲右衛門関係新聞資料』
  170. ^ 唯1999p.334
  171. ^ 来日したグラモフォン社の録音技師フレッド・ガイズバーグによる。以下はその復刻版。『日本吹込み事始 1903年ガイズバーグ・レコーディングス』TOCF 59051
  172. ^ 山口亀之助『レコード文化発達史』 録音文献協会、昭11。p.21なお『定本 日本浪曲史』によれば、これは幟に書かれた演者本人が吹込みをしたものではなく、鼈甲斎雲竜による節まねであったという
  173. ^ 原典:朝日新聞 1906年10月2日。出典:唯1999。p.10-11
  174. ^ 秩父久方によれば「当時の壮士演説会のようすを模倣し、芸能的にショーアップしたものであろう」出典:「浪曲」『日本大百科全書』18巻p.531
  175. ^ 岡本和明『俺の喉は一声千両』
  176. ^ 寄席の入場料が十銭の時代に、一等一円の料金を取り、最初の5日間で費用を回収、それ以降は入場料がそのまま利益という近代興行界最大の快挙であった。出典:倉田喜弘「浪曲」『日本音楽大事典』平凡社
  177. ^ 派手な宣伝は相当なもので、東京市中に「日本一の奈良丸」とビラなどで告知、関東の浪花節語りは一斉に反発しビラを叩き落として回ったという逸話が残る。出典:日本浪曲史p.
  178. ^ 1908年(明治41年)6月15日 福岡日日新聞によれば当年13歳
  179. ^ 1910年(明治43年)6月27日 福岡日日新聞によれば12歳
  180. ^ 1911年(明治44年)9月29日 河北新報によれば13歳
  181. ^ 成人し、後に娘が天津羽衣
  182. ^ 『実録 浪曲史』p.8 表2。
  183. ^ つまりレコードも上・中流階級から普及し、隠れるように浪花節を聴いたのである。 出典:西沢爽『日本近代歌謡史』別冊付録「日本流行歌大系・略史」p.3
  184. ^ 山口亀之助『日本レコード発達史』p.164
  185. ^ 倉田喜弘『日本レコード文化史』
  186. ^ 明治35年頃には「どんどん節」は流行っている。円車の節を織り込んだのは明治44年に流行。出典:西沢爽『日本近代歌謡史』
  187. ^ 大正3年から4年。出典:西沢爽『日本近代歌謡史』
  188. ^ 『日本のうた 第一集 明治・大正』p.221によれば、最後の一節が奈良丸の浪花節の節調をそのまま採り入れている。また三番の歌詞「月が出た出た月が出た/セメント会社の上に出た/東京にゃ煙突が多いから/さぞやお月様煙たかろう」はのちの炭坑節の元となった。出典:東京のうた.84 奈良丸くずし 朝日新聞 1968年(昭和43年)5月1日
  189. ^ これは創立間もない講談社が速記から創作(今に至る路線である)に転じる重要なきっかけとなる
  190. ^ 講談社『講談社の90年』p.60-61
  191. ^ NHKで「浪花節」から「浪曲」へ言い換えるようになったのは1957年(昭和32年)のことである。放送演芸史p.61
  192. ^ 上島敏昭「仇討ちのドラマトゥルギー―浪花節の忠臣蔵をめぐって―」『芸能』33(12) p.30
  193. ^ 安田宗生『国家と大衆芸能』p.13
  194. ^ 大阪朝日 1920年(大正9年)8月21日付、都新聞 同年8月23日付など
  195. ^ 奈良丸の渡米は1917年(大正6年)。3月8日サイベリア丸で鹿島を立ち、5月13日SFユーイングフィールド野球場にて邦字紙「新世界」主催読者大会で口演。7月8日ウィルソン大統領に単独面会、後の首相・原敬の後押しで。その後アメリカ・ビクターで吹き込み。出典:『浪曲の神髄』p.97-105
  196. ^ 移民一世を中心に第二次世界大戦後も一定の人気を保ち続け、「コロニア浪曲」と呼ばれる現地制作のレコードも作られた。出典:細川周平『遠きにありてつくるもの―日系ブラジル人の思い・ことば・芸能』みすず書房 2008年
  197. ^ 1912年(明治45年)3月17日、神田・市場亭にて「安中草三」を6時間に及ぶ通し読みをし、一躍名を上げた 出典:二六新報 1912年3月15日夕刊、同3月20日夕刊
  198. ^ 日蓄は大正14年6月、帝国蓄音器、三光堂、東京蓄音器の3社を合体させ、合同蓄音器が発足した(8月3日設立)同様にスタンダード蓄音器、イーグル蓄音器が統合した。出典:『昭和演歌の歴史』p.75欄外
  199. ^ 西沢爽『日本近代歌謡史』p.3794-3795。「いわゆる今日の流行唄(書生節)がどれほどの数値であったかを見ること」に眼目が置かれている。
  200. ^ また他に、当時レコードを活用し音楽(主にクラシック)の講演(今でいうレコードコンサート)をしていた田辺尚雄のエピソード。明治末年には「地方の講演は」「学校の講堂でやる」。「蓄音器を一台」準備を頼むと「レコードは浪花節か端唄か民謡」しかないが用意しときますと返事されたという。初めて聞く交響曲やピアノソナタ、オルガン曲に非常な驚きを示したと。(田辺尚雄「明治音楽物語」p.301)
  201. ^ 音楽評論家中村とうようは、レコードが本格的に商品になった時期を1927年から1929年にかけてとみている。真鍋2017 p.91
  202. ^ 大正15年晩秋、ニッポノホンから発売された「君恋し」がヒットし始める。出典:『昭和演歌の歴史』p.74。この前の時期の表。
  203. ^ 5月15日、試験放送中の大阪放送局(BK)に宮川松安の浪花節。関東は開局から3ヶ月遅れでAKに春日亭清吉が登場する 出典:唯p.49
  204. ^ 公開実験放送の段階にも登場している。東京・上野不忍池で1924年(大正13年)10月30日に東家楽燕の「南部坂雪の別れ」 出典:南利明「”浪花節“放送局の実態 草創期のJOCK」『放送研究と調査』1983年10月号p.56
  205. ^ 兵藤裕己. “オーラル・ナラティブの近代 (PDF)”. 2014年3月13日閲覧。成城大学
  206. ^ 同様のものに1941年(昭和16年)朝日新聞中央調査会が行った「地方娯楽調査資料」があり、浪曲はやはり全国的に人気を得ていた事がわかる。出典:『近代庶民生活誌 第8巻 (遊戯・娯楽)』に収録
  207. ^ 国会図書館「れきおん」に多数録音が残されている
  208. ^ 堀江誠二『悪声伝 広沢瓢右衛門の不思議』p.171
  209. ^ 三好貢編『浪花節一代』朋文社、1957年。JP:58000659。雲井吉雄「浪曲学校と私たち」p.283-288
  210. ^ 「日露戦争後、沸騰的に浪花節が勃興して市中の各席は殆どが浪曲の寄席となった時代から見ると全く夢のようです、現在では市中には浪曲専門の寄席が見られなくなりました、従って語る人々も地方へ地方へと流れ込んで、残された者こそ、全く選り抜きの大看板だけとなりました。この人達はレコードに、放送に、浪曲映画や、浪曲名人会と相当に発展をしております。近く東家楽燕が、九段に浪花節学校を創立して、後進を養成している、その第一回公演が過般、九段小劇場で開催されました、その夜楽燕に逢って抱負を聞きましたが誠に結構なことと思っております。現在一流の浪曲家としては、楽燕、虎丸、重友、大蔵、重勝、武蔵、友衛、虎造、米若、綾太郎、勝太郎、栄楽等であります。」出典:青山光太郎編『大東京の魅力』1936年(昭和11年)1月1日発行、東京土産物協会 コレクション・モダン都市文化31 p.259「浪花節」の部分。
  211. ^ 放送演芸史p.7
  212. ^
    総レコード制作枚数
    昭和12年7月1日~昭和13年6月末日の統計。
    単位:万枚(見込に過去の手持ち売りさばき分含む)
    メーカー 総制作枚数 売上見込枚数
    コロムビア 603 601
    ビクター 418 337
    ポリドール 339 260
    テイチク 226 220
    キング 143 88
    タイヘイ 201 130
    アサヒ 41 46
    ショウチク 85 85
    コッカ 37 31
    福永 32 30
    コムパル 3 3
    ニッポン 8 6
    合計 2136 1836
    1ヶ月平均 178 153

    原典:『出版警察報』第113号、1938年(昭和13年)9月。出典:『近代日本芸能年表 下』p.190

  213. ^ 唯1999 p.84
  214. ^ 1938年(昭和13年)8月29日から3日間の二代目天中軒雲月の襲名5周年記念独演会や、1940年(昭和15年)8月28日、29日の春日井梅鴬独演会など 出典:『歌舞伎座百年史』p.272,284,289,298
  215. ^ 情報局に講堂として接収され、1941年(昭和16年)1月30日に愛国浪曲試聴会。出典:唯1999。p.101
  216. ^ また1943年(昭和18年)12月30日の「芸能従軍壮行 浪曲大会」。出演は春日井梅鴬、広沢虎造、梅中軒鴬童、寿々木米若。出典:『帝国劇場100年のあゆみ』p.89
  217. ^ 1942年(昭和17年)には欠くこともなく毎月劇場での浪曲大会が続いたという 出典:唯1999。p.112
  218. ^ 放送演芸史p.41
  219. ^ 講談落語協会が禁止演目を浅草妙本寺のはなし塚に葬ったのは1941年10月30日のことであった。 唯1999 p.104
  220. ^ 真鍋2017 p.130
  221. ^ 唯1999。p.96本文・表14
  222. ^ 『定本日本浪曲史』p.30
  223. ^ 詳細については猪野健治『興行界の顔役』ISBN 9784480039798冒頭を参照
  224. ^ 歌川光『愛国浪曲小説集』大衆文芸社、1941。JP番号 44008870。序の部分
  225. ^ [1]
  226. ^ 出典:『大衆文化事典』浪曲の項(芝清之)要確認★
  227. ^ CCDから禁止演目など具体的な指示通達を受けたことがわかっている 出典:唯1999。p.155-156
  228. ^ 芸能人の長者番付 東京財務局調査 朝日新聞 1949年4月12日付に三門博、広沢虎造、春日井梅鶯の名
  229. ^ 唯1999 p.176
  230. ^ 唯1999。p.306 TBSに入局し、スポーツアナウンサーとして活躍した虎造の息子、山田二郎(虎造節継承会)も談話で言っている
  231. ^ 「銭形平次」(ラジオ東京 - 文化放送)は異例の長期間にわたる番組であった。脚本は全て国友の自作
  232. ^ 「関東全地域・夏期 民放在京3局 高聴取率番組 昭和32年度」唯1999。p.261.表32右
  233. ^ NHK調べ。表の前年、昭和31年度も。1位浪曲天狗道場(火)ラジオ東京19.6%、2位浪曲名人席(日)ラジオ東京14.4%、3位浪曲学校(木)文化放送14.2%、8位銭形平次(月)ラジオ東京9.6%、10位浪曲玉手箱(金)ニッポン9.1% 唯1999。p.261.表32左
  234. ^ 兵藤裕己『声の国民国家・日本』p.12
  235. ^ 宮崎学「ヤクザと芸能の世界」『ヤクザと日本』ちくま新書 p.112
  236. ^ 小沢昭一『放浪芸雑録』「トクダシ小屋のトクちゃんの一代記について/語り手=徳ちゃん」
  237. ^ 大利根勝子『浪曲波乱万丈!』(DVD) での告白
  238. ^ (関西で)「昭和20年代半ば、浪曲は急速に人気を失った」と明記あり。ワッハ上方『上方演芸大全』p.58
  239. ^ 1965年(昭和40年)から1993年(平成6年)までは毎年開催 出典:松竹(株)・(株)歌舞伎座「歌舞伎座百年史」平成7年(1995年)発行
  240. ^ 『日本浪曲大全集』
  241. ^ この時期の新聞記事に頻繁に出てくる
  242. ^ 芦川淳平『浪曲の神髄』p.47-48
  243. ^ 「メロディーとともに (7)「浪曲・次郎長伝」『神戸新聞』1999年6月4日付夕刊、3面。
  244. ^ 浪曲の隆盛のため孤軍奮闘 国本武春さんをしのぶ 油井雅和 - 毎日新聞
  245. ^ 「浪曲人気復活 落語に続け」日本経済新聞2017年5月8日夕刊p.16
  246. ^ 平成29年度文化庁芸術祭(大衆芸能部門)新人賞受賞 http://www.bunka.go.jp/seisaku/geijutsubunka/jutenshien/geijutsusai/h29/index.html
  247. ^ 読売新聞 2018年1月1日付 第三部 3面「講談・浪曲に新星」
  248. ^ 2017年6月10日木馬亭イベント「電気浪曲の会」虎造節大会関係者中心に天狗連
  249. ^ 小、坊については修行中を表す意味が強く、その名を持つ浪曲師だけを集めた大会もしばしば開かれた。 出典:唯1999。p.90
  250. ^ 唯1999「明治・大正女流列伝」p.33
  251. ^ 『定本 日本浪曲史』p.304-306に大正6年版、昭和39年版、昭和51年版。
  252. ^ 巡業した浪曲師自身を持ち上げたお手盛りの番付も多く、そこは御愛嬌であるとされる。
  253. ^ p.216-223
  254. ^ 定本版p.171-176
  255. ^ この節は、稲田和浩『浪曲論』彩流社 2013年 ISBN 978-4779119088、正岡容著 大西信行編 『定本日本浪曲史』岩波書店 2009年 ISBN 978-4000242639 を参考にした。
  256. ^ 福岡から佐賀、長崎出身の浪曲師は桃中軒雲右衛門の登場以来数多い。安斎竹夫『浪曲事典』1975年刊にも九州が本拠地の浪曲師の掲載がある
  257. ^ 浅草公園の図。明治40年。右下の雷門の位置の左側に新恵比寿亭
  258. ^ 松山伝十郎編『浅草繁昌記』実力社 1910年 p.154
  259. ^ 『写真にみる浅草芸能伝』芝清之による解説。p.203
  260. ^ 堀江誠二『悪声伝 広沢瓢右衛門の不思議』p.31
  261. ^ 大阪毎日新聞1910年11月29日付
  262. ^ 大阪毎日1910年12月21日付
  263. ^ 大阪毎日1912年1月29日付
  264. ^ 村嶋歸之調査『大大阪』
  265. ^ 桂米朝『上方芸人誌』p.177
  266. ^ 浦安町誌上p.293
  267. ^ 三谷紀美『浦安·海に抱かれた町』筑摩書房、1995年。ISBN 4480813810。p.137
  268. ^ 三谷p.144
  269. ^ 『歌藝人』p.98-102 芸の難所として名古屋(三河一色)と共に挙げている。
  270. ^ エーピーピーカンパニー『江戸東京芸能地図大鑑』
  271. ^ 『歌藝人』p.32







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