くめうた 【久米歌】
久米歌
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久米歌(くめうた)または来目歌(くめうた)は、記紀歌謡の一群で、神武天皇の神武東征伝承において久米部が歌ったとされる歌である。『日本書紀』には8首がみえ、そのうち6首は『古事記』にも収められている[1]。後世には雅楽の国風歌舞である久米舞に用いられ、宮廷儀礼の歌舞として伝えられた[2]。
久米歌は、神武東征説話のうち、大和国の平定に関わる場面に組み込まれている。歌は、兄猾、八十梟帥、兄磯城、長髄彦らの征討に関わって久米部が歌ったものとして伝えられ、戦闘や勝利を背景とする勇壮な性格をもつ。『日本書紀』には、久米歌を楽府で奏するとき、手の動きの大小や声の大小に古い作法が残るとする記述があり、古代において歌唱と所作を伴う形で伝承されていたことを示している[3]。
久米歌を伝えたとされる久米部は、久米氏と関わる部民集団であり、神武東征伝承では武人的な従者として描かれる。久米歌は、単なる戦闘歌ではなく、久米部の武人的性格、久米氏と大伴氏との関係、王権への服属や忠誠をめぐる儀礼的意味と結びつけて解釈されてきた[4]。
記紀における久米歌
最古の記録としての久米歌は、『古事記』と『日本書紀』の神武天皇条にみえる。『日本書紀』では、神武天皇の東征過程で、大和の諸勢力を征討する記事に久米歌が組み込まれている。『古事記』にも対応する歌が収められているが、両書の歌数や本文には差異がある[5][3]。
歌の内容には、敵を討つ意志を示す表現や、農耕・狩猟・食物に関わる比喩が多くみられる。代表的な句として、「撃ちてし止まむ」に象徴される戦闘的表現があり、敵を討ち果たそうとする集団的な意志が歌われる。一方で、粟、韮、椒、鴫、鯨など、日常生活や狩猟・食物に関わる語彙も含まれ、後世の研究では、これらの表現を久米部の生活や集団的性格と関係づける解釈が行われてきた[4]。
『日本書紀』には、久米歌を楽府で奏するときの作法について、「手量」の大小や「音声」の大小に古い遺式があるとする記述がある。この記述は、久米歌が単に文字で伝えられた歌謡ではなく、声の強弱や身体動作を伴う歌舞的な伝承として意識されていたことを示すものとされる[3]。
久米歌は、後世の宮廷儀礼において久米舞と結びついて伝承された。『雅楽事典』では、神武天皇紀にみえる久米歌を背景とする歌舞曲として久米舞を説明し、久米歌が天平勝宝時代の東大寺における大仏供養(開眼供養)にも奏されたことを記している[2]。
歌の内容と表現
久米歌には、戦闘に関わる表現と、農耕・狩猟・食物に関わる比喩が組み合わされている。代表的な句として知られる「撃ちてし止まむ」は、敵を討ち果たそうとする意志を示す表現であり、神武東征説話の中では、大和の諸勢力を征討する場面に置かれている[5][3]。
たとえば、『古事記』には次のような歌がみえる。
粟生には 臭韮一本 そねが本 そね芽繋ぎて[5]
また、『古事記』には「垣下に 植ゑし椒 口ひひく」とする歌がみえ、『日本書紀』にも対応する歌として「垣本に 植ゑし山椒 口疼く」が収められている[5][3]。これらの歌では、韮や椒など、身体感覚に訴える身近な植物を用いた表現が、敵対者を討つ意志や緊張感を伴う場面に結びつけられている。
狩猟に関わる表現も久米歌の特徴の一つである。『古事記』には、次のような歌がみえる。
宇陀の 高城に 鴫羂張る 吾が待つや 鴫は障らず いすくはし 鯨障る[5]
この歌では、鴫を捕らえるための罠に、予期しない大きな獲物である鯨がかかるという比喩が用いられている。久米歌には、このように戦闘場面を直接描く表現だけでなく、農耕・狩猟・食物などの日常的な経験に根ざした比喩を通じて、敵対者や勝利を表現する特徴がみられる[4]。
久米舞
久米歌は、宮廷歌舞である久米舞に用いられた。久米舞は雅楽の国風歌舞の一つで、神武東征伝承に関わる久米歌を背景とし、宮廷儀礼の歌舞として伝えられた[2]。『雅楽事典』によれば、久米舞は長く中断していたが、文政元年(1818年)に再興された[2]。
現行の久米舞は、参音声、揚拍子、伊麻波余、退出音声から成る[2]。舞人は4人で、抹額冠、巻纓、老懸、赤袍、差貫、太刀、烏皮沓などを着用する。歌方は、拍子、和琴、琴持2人、横笛、篳篥、付歌若干人からなる[2]。
演奏の次第では、舞人と歌方が立ち並んだのち、笛と篳篥による合音取、参音声、揚拍子へと進み、舞人が剣を抜き、和琴に合わせて舞う。その所作は「蜘蛛を切る形」と説明されている[2]。
研究史・解釈
久米歌の性格については、古代歌謡・古代史・王権儀礼の観点から複数の解釈が行われてきた。高木市之助は、久米歌にみえる「撃ちてし止まむ」という主題に注目し、粟、韮、椒などの身近な素材を用いた表現や、「吾や忘れじ」「吾はや飢ぬ」といった一人称的な意志表現に、氏族員を率いる古代的な族長像を読み取った[4]。
石母田正は、歌謡の形式や歴史的背景から、久米歌の成立時期について、大和朝廷が周辺勢力を征服し、朝鮮半島方面にも勢力を及ぼした時期、すなわち5世紀頃を想定した。この見方は、久米歌を神武東征説話そのものの成立時期と直結させるのではなく、後代の王権形成過程や軍事的伝承を反映する歌謡として捉えようとするものである[4]。
一方で土橋寛は、久米歌を単に久米部の戦闘感情を表した歌としてではなく、天皇に向けた忠誠の誓約を含む歌謡として解釈した。土橋は久米歌について、部下である久米部の気持ちだけでなく、これを率いる族長の意志も表れており、さらにそれを聞く第三者として天皇が想定されているとした[4]。
こうした諸説を紹介しつつ井上光貞は、久米歌を古代の王権と氏族秩序を考える素材として扱った。井上は、久米氏が大伴氏に統率された中小伴造として久米部を率い、大伴氏がさらに天皇に従属するという階層的関係に注目し、久米歌を王権への服属や氏族的秩序を示す歌謡として位置づけている[4]。
久米歌には、古代王権の征服説話に組み込まれた戦闘歌謡としての側面と、後世の宮廷儀礼において久米舞と結びついた儀礼歌謡としての側面がある。解釈にあたっては、記紀における説話上の位置づけ、歌謡表現の特徴、久米氏・久米部の伝承、宮廷楽舞としての伝承を区別して扱う必要がある。
脚注
参考文献
- 石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝――中国正史日本伝(1)』岩波書店〈岩波文庫〉、1951年。
- 井上光貞『日本の歴史 1 神話から歴史へ』中央公論社、1965年。
- 倉野憲司校注・訳『古事記』小学館〈完訳日本の古典 1〉、1983年。
- 宇治谷孟訳『日本書紀 全現代語訳 上』講談社〈講談社学術文庫〉、1988年。
- 小野亮哉監修『雅楽事典』音楽之友社、1989年。 ISBN 4-276-00080-7。
- 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店〈岩波文庫〉、1994年。
- 藤堂明保・竹田晃・影山輝國訳注『倭国伝――中国正史に描かれた日本』講談社〈講談社学術文庫〉、2010年。
関連項目
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