もうそう‐びわ〔マウソウビハ〕【盲僧×琵×琶】
盲僧琵琶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/09 00:40 UTC 版)
盲僧琵琶(もうそうびわ)とは、
概要
起源は、アジア大陸から古代の日本列島に渡来した盲人の琵琶法師であるといわれる[1]。開祖は、17歳で失明した筑前の僧侶、玄清法印(766-823)とされる[2]。
僧侶が琵琶を弾く理由は、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』方便品第二の偈に、琵琶その他の楽器を列挙し、これらの楽器や歌声で仏を供養すれば成仏できる[3]と「妙音成仏」の思想を説いていることをより所とする。
奈良時代に端を発し、盲僧(盲人僧侶)の組織が古い段階でかたちづくられた。盲僧琵琶は宗教音楽としてはじまり、盲僧は古くから琵琶の伴奏で経文を唱えていた。宗教を離れた娯楽的な語りもの音楽もあり、それは「くずれ」と称される。
後世、盲僧琵琶は、九州地方の薩摩国(鹿児島県)や筑前国(福岡県)を中心に伝えられたが、吉川英史は、輸入地であった筑前から中央に進出して京都にも盲僧組織があったのではないかと推定している。室町時代中期に薩摩盲僧から薩摩琵琶という武士の教養のための音楽がつくられ、しだいに語りもの的な形式を整えて内容を発展させてきた。芸術音楽としては薩摩琵琶が筑前琵琶よりも古いと考えられるが、宗教音楽としては、筑前盲僧琵琶が薩摩盲僧琵琶に先行する[4]。
晴眼者の琵琶楽となった薩摩琵琶と、近世以降の三味線音楽の影響のもと明治20年代に筑前盲僧琵琶から筑前琵琶が派生した。筑前琵琶は、筑前盲僧琵琶から宗教性を脱していったもので、明治時代中期に女性を主たる対象とする家庭音楽として確立された[5]。さらに、肥後琵琶については近年まで紹介がなされておらず、詳細は不明ながら、盲僧琵琶の一支流と考えられる[4]。
京都を主たる活動の場としていた盲僧琵琶の影響の下、楽琵琶を導入し、また、声明音楽のなかの「講式」を採用して、いわば盲僧琵琶と雅楽琵琶を総合したのが、『平家物語』による音楽、すなわち「平曲」である[6]。盲僧たちはそれぞれ地域に応じた組織を持ち、室町時代から江戸時代にかけては、平曲の盲人演奏家の組織である当道座とは対立したといわれる[注釈 3]。
脚注
注釈
参照
参考文献
- 吉川英史「語りもの」山川直治編集『日本音楽の流れ』音楽之友社、1990年7月。ISBN 4-276-13439-0
- 吉川英史「琵琶」山川直治編集『日本音楽の流れ』音楽之友社、1990年7月。ISBN 4-276-13439-0
関連項目
外部リンク
盲僧琵琶
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「盲僧琵琶」も参照 盲僧琵琶は仏教儀式に用いられたもので、盲人の僧侶が『法華経』方便品第二の偈の「妙音成仏」の思想を根拠に琵琶の伴奏で経文を唱えたとされるが、娯楽的な音楽もある。その起源は奈良時代に求められ、早くから盲僧の組織が作られていた。蝉丸もその一人といわれる。大別して薩摩盲僧と筑前盲僧とがあり、室町時代から江戸時代にかけ、平曲の座頭組織である当道座と対立した。薩摩盲僧琵琶から薩摩琵琶が派生し、また薩摩琵琶および三味線音楽の影響のもと明治20年代に筑前盲僧琵琶から筑前琵琶が派生した。 盲僧琵琶には一定した制がなく、色々なかたちがみられるが、楽琵琶の系統とはやや異なり、近世中国の琵琶に似ているものが多い。細身のものが多く、特に細いものを笹の葉に見立てて「笹琵琶」と呼ぶ。筑前琵琶では五弦、薩摩琵琶では四または五弦の琵琶が使われていたが、薩摩系の常楽院流の伝書『琵琶由来記』によれば、盲僧琵琶の柱は古くは六弦六柱だったものを四弦四柱に改めたとあり、常楽院には六柱の琵琶が保存されている。6には六波羅蜜、六観音など仏教の命数としての意味があり、六柱琵琶は仏具として全ての盲僧琵琶に使われていたと見られている。
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