演歌師
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演歌師(えんかし)は、明治末期ないし大正から昭和にかけての日本において、演歌を歌うことを職業とした芸人[1][2]。
- ^ a b c デジタル大辞泉『演歌師』 - コトバンク
- ^ a b “図書室だより:第3回 テーマ「書生節 演歌師たちの世界」”. 日本伝統音楽研究センター. 2014年1月26日閲覧。
- ^ 時雨音羽編著『増補版 日本歌謡集 明治・大正・昭和の流行歌』現代教養文庫、1971年 p.21
- ^ “[遺された言葉]桜井敏雄さん あたしじゃなくちゃ歌えない歌を、歌い続けたい”. 読売新聞・夕刊: p. 9. (1996年4月6日) - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ “世相を語るバイオリン演歌 芸術祭賞受賞の桜井敏雄さん”. 朝日新聞・東京朝刊・東京. (1989年12月2日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ “桜井敏雄氏死去”. 朝日新聞・朝刊: p. 31. (1996年2月27日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ “土曜訪問 魂なき世に刻む使命 希代の演歌師を伝え歌う 土取利行さん(パーカッショニスト)”. 東京新聞. (2013年11月9日) 2014年1月26日閲覧。
- 1 演歌師とは
- 2 演歌師の概要
演歌師
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上京して町工場に入り、低賃金で働く工員らの不平を工場長に訴えて解雇される。その後法政大学予科入学。授業料を稼ぐため1920年、演歌の大先輩・添田唖蝉坊らの東京倶楽部に入り演歌師となる。テキヤの乾分(子分)となり、中学時代に少し習ったバイオリン片手に毎夜東京中の縁日をまわり暗闇の中、書生節を歌い自ら編集した流行歌の歌本を10倍の値段で売って生計を立てた。全ての資金を稼ぐにはこの危険な商売しかなく、大学の予科3年・本学3年の卒業まで計約6年これを続けた。ヤクザに殴られ殴り、瞼の縁が常に紫色に腫れていた。代表作・インテリ時事小唄『のんき節』はこの時代1923年頃の作とされる。卒業後1930年、『酋長の娘』を作詞・作曲、1931年には藤波笑声名で『噫中村大尉』を歌いいずれも大ヒットした。当時は国産レコード会社の続々創立される時代、『酋長の娘』は1929年創立されたポリドール最初のヒットであった。 なおそのバイオリンはなぎら健壱が有しているという。 他のヒット曲に『時事小唄』、『のんきな父さん』、『いやぢゃありませんか』、『春の名残り』、『男の恨み』などがある。 1932年、吉本のトップスターであった柳家金語楼の推輓で吉本興業(東京吉本)専属となり、浅草万成座で初舞台。一時は弁護士を目指していたと言われ“インテリ・時事小唄・法学士”の看板を掲げて高座に上がり、洋服姿でバイオリン片手に『のんき節』で売り出し人気を博した。浅草の劇場ではトリを務めた。『のんき節』は添田唖蝉坊が作ったものだが、石田は自作を加え、替え歌にして庶民の側から社会を風刺した。「~凡て内密で取引きするのが闇取引きで御座います。帝国議会の闇取引きは秘密会議と申します~ハハのんきだね~」などと当時の軍部や政治権力、社会の矛盾を辛辣に批判。権力に抵抗する演歌師の姿勢をそのまま昭和の寄席に持ち込んだともいうべき芸で当局には睨まれ、しばしば出演停止を命じられたが庶民からは圧倒的人気を博した。 1938年には、吉本興業が朝日新聞と共同で結成した戦時演芸派遣慰問団「わらわし隊」にも参加、日中戦争時の中国大陸に派遣された兵士を慰問した。また若い頃から政治志向が強く町会議員選挙にも出ている(当落不明)。また舞台、テレビ、ラジオのほか、吉本が東宝と共同で製作した1945年の映画「東京五人男」(主演・古川ロッパ・横山エンタツ・花菱アチャコ・柳家権太楼など)にも出演するなど幅広く活動した。
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