演歌歌手の第一人者とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 演歌歌手の第一人者の意味・解説 

演歌歌手の第一人者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 04:23 UTC 版)

春日八郎」の記事における「演歌歌手の第一人者」の解説

1952年春に恵子妊娠判明し家族のために歌の道あきらめて新聞社就職しようとするが、履歴書見た恵子に「歌をやめたあなたなんて、魅力なにもないわ」と猛反対されて撤回8月恵子熱意本人努力心を打たれた師、江口が、春日のために新曲赤いランプの終列車』を作曲した自宅テープ吹き込みキングレコード改め春日を推薦する闇屋経歴過去女性関係が問題視されるなど、紆余曲折経てなんとかレコード化11月発売江口曰く、「キングレコードはこの曲を序列では10の一番最後としていた位であまり高く取ってはいなかった」。当時春日の声、唱法は岡と相当に似ていたらしく、改名するにあたって名付親は作詞家藤間哲郎であった。たまたま岡宅に祀られている春日大明神神棚を目にしたことから、「岡さん上の歌手になれという意味を含めて春日とし、末広がり八の字を「運が開くよう」にと名に入れた1953年に『赤いランプの終列車』が名古屋から売れ出し、やがて全国的な50万枚大ヒットになる。三門前座歌手卒業し、秋からは当時大人気先輩歌手であった岡の前座務めるようになり、生活のメドがようやく立つ。この年吹き込みは中ヒットとなった街の燈台』『雨降街角』を含む12曲で、青木光一三浦洸一と並ぶ歌謡界若手三羽烏として注目集めはじめる。名古屋からヒットしたのは大須レコード屋主人が、なかなか面白歌手であると気に入って宣伝し出したのがきっかけで、この主人女性で、手書きポップまで作って宣伝してくれたとある。 1954年8月には移籍した岡の代打歌舞伎狂言与話情浮名横櫛』に登場するお富さん切られ与三郎の掛け合いを歌にした『お富さん』を吹き込む諸事情から練習時間は僅か1時間であったらしいが、発売3か月30万枚最終的に125万枚売り上げる空前大ヒットとなる。同年末の第5回NHK紅白歌合戦初出場果たした子供たちまでが意味も知らぬまま「いきなくろべえみこしのまつに」と口ずさむなど、社会現象化。一躍人気スター仲間入りをする。当初代打として若原一郎想定されていた。 この頃春日ラジオ番組で「お富さんなんかきらいだ吹き込みたくなかった」という意味の失言してしまい社内物議を醸し四方陳謝してようやく一件落着となる。年が明けて1955年も続く『お富さんブームの中、「俺とは本来は違うもの」を歌っているという思い消えず周囲の「一曲大ヒットし過ぎるとあとが続かない」「『お富さん』の消えるときが春日八郎消えるとき」等々の声にも悩まされる日が続く。11月に『別れの一本杉』を発売望郷演歌嚆矢ともいえるこの歌は、1年半ぶりに60万枚大ヒット、まだ売り出し中の船村徹有名にさせた作品にもなった。 それまで流行歌とは質の異な望郷歌謡をたて続けヒットさせ、流行歌衰退期において「演歌」という新天地築いた春日歌手としての揺るぎない地位確立し、『別れの一本杉』は生涯代表曲一つとなる。この年には「平凡」の人気投票男性歌手部門初登場し、いきなり2位以下(小畑田端義夫津村、岡、藤山)に大差付けて第1位に輝く。『別れの一本杉』はキング社内廊下で、一面識もなかった船村呼び止められ是非にと乞われてギター伴奏聞いた3曲のうちの1曲で、即座に「歌わせてくれませんか」との流れになる。三橋美智也とのカップリング・レコードの企画持ち上がりはしたものの、決まったのは三橋の曲『君は海鳥渡り鳥』のみで、春日の曲が難航お蔵入りのものの中から「企画とは別の流れですでにレコーディング済ませてあった」この曲が浮上し10月20日に再吹き込みとなった当初タイトルは『泣けたっけ』であったが、掛川尚雄ディレクターが「歌詞含めて泣けた』が多過ぎる」と現在のもの変更この年多忙な生活からくるストレス発散健康維持のためと、歌謡界での馬主はしりであった岡の影響から馬主になる。1967年には、個人事務所として春日プロモーション(現:春日プロ)を創立した八郎直後に同じキングから三橋更には三波春夫村田英雄島倉千代子らが登場美空ひばり演歌歌い出し、後に演歌の女王称されることとなる。1960年代には北島三郎都はるみ等が台頭し演歌全盛期をむかえる。このような演歌台頭流れから、八郎を演歌歌手の第一人者と見る向きが多い。音楽ジャンルとして演歌定着すると、長年にわたり演歌界をリードした。 なお、八郎代表作1つお富さん』は、1978年11月アメリカのファンクグループのエボニー・ウェッブによって『ディスコお富さん』(キングレコード/SEVEN SEAS)としてカバーされリバイバルヒットし、1979年1月時点25万枚売り上げた制作担当した河野次郎は、歌詞覚えてもらうのに一苦労した述懐している。『ディスコお富さん発売1ヵ月後に、20万枚突破記念パーティー開かれ作曲渡久地政信春日本人出席しディスコ踊った渡久地政信は「こんな再生仕方もあるんだね」と感心していた。

※この「演歌歌手の第一人者」の解説は、「春日八郎」の解説の一部です。
「演歌歌手の第一人者」を含む「春日八郎」の記事については、「春日八郎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「演歌歌手の第一人者」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「演歌歌手の第一人者」の関連用語

演歌歌手の第一人者のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



演歌歌手の第一人者のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの春日八郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS