日本調の歌の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 13:56 UTC 版)
この時期のレコード歌謡において同時代的に「演歌」と呼ばれた作品、ジャンルはないが、それに類する曲調の楽曲がある。 大正末期、「船頭小唄」が大流行する。関東大震災後の世相に合致したもので、厭世的な歌詞やヨナ抜き短音階などの特徴が後の演歌の音楽的特徴を先取りする者であった。これは演歌師による作品ではないが、最初に楽譜として売り出されたのが演歌師によって歌い広められており、それが話題を呼んで映画化、無声映画であったため演歌師が実演するというレコード界と演歌師のコラボレーションで知名度を上げた。また、演歌師にあっては鳥取春陽が作曲を得意としており、「船頭小唄」の作風を踏襲した「籠の鳥」をレコード発売してヒットする。鳥取春陽はその後、オリエントレコードの専属作曲家へと転身した。 また、ヨナ抜き長音階としては「カチューシャの唄」(1914年)がある。同曲は伝統的な民謡音階と西洋の長音階の折衷によって生まれたもので、単純な「日本的な歌」ではなく、「ヨナ抜き=日本調」という見方は同時代的には存在しなかったことがわかる。この曲の流行も演歌師の活躍が大とされており、この時期の演歌師は、曲を流行させる媒介者としての要素が強かった。 レコード歌謡の世界において、前近代の日本の風土に由来する「日本調」のものとしては、お座敷の要素を取り入れた芸者風の歌手が挙げられる(芸者出身者としては藤本二三吉、小唄勝太郎、一丸、赤坂小梅、美ち奴、神楽坂はん子、神楽坂浮子、「芸者風」では久保幸江、榎本美佐江、五月みどりなど)。曲調は粋で享楽、官能的で、また歌唱法に民謡や浪曲の特徴が一切ないなど、現在の演歌とは全く異なる歌であった。 また、題材に「日本調」を取り入れたものとしては、股旅物が挙げられるが、これはあくまで題材が日本調であるにすぎず、東海林太郎やディック・ミネの歌唱法は西洋音楽芸術のそれであった。また、股旅物というジャンル自体が長谷川伸に代表される当時の大衆小説によるもので、その意味でも伝統的なものではない。 戦後しばらくのレコード歌謡の主流の歌唱技術は西洋音楽技術に準ずるべきであると考えられており、藤山一郎、淡谷のり子、霧島昇らはいずれも音楽学校出身の歌手であった。彼らはいずれも、後に流行する演歌の歌唱法に対して厳しい非難を繰り返すこととなる。
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