日本調への評価の変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 13:56 UTC 版)
上述の通り、進歩的文化人の間で日本的な歌や艶歌は否定され続けていた。この頃の最も強く流行歌を批判してきたのは、園部三郎であった。園部は戦前の歌謡界の変化を例にとり、「いわゆる日本的旋律による哀感は、社会の頽廃期には必ず出現するほどまでになる」と、日本的な歌を激烈な表現でこき下ろした。もっとも、一般メディアではその政治性が消去されて、「不況になれば艶歌がはやる」という単純な図式が示されていた。 一方で、1960年の安保闘争を前後して学生運動から生まれた新左翼は、従来の進歩的文化人の啓蒙思想や特権的態度への反発から、進歩派に「低俗」「頽廃」とこき下ろされてきた民族的、民衆的な文化を肯定的に読み解く試みを行うようになる。新左翼的レコード歌謡論の嚆矢は、思想の科学1963年10月号(「差別」特集号)の座談会「流行歌にみる大衆思想―――アカシアの雨に打たれて」(多田道太郎・寺山修司・森秀人鼎談、多田は実質的に司会役)である。この中で寺山は、「連帯」を価値とするうたごえ運動との対比で、歌謡曲を「孤絶したアウトローが一人で歌うもの」と規定した。そしてその要素として「さびしさ」「暗さ」を審美化したことで、後の「演歌」のフォーマットを提示したといえる。一方森は、スターリニズムにかわる思想的潮流であった「疎外」や「性の解放」というテーマを絡めることによって、進歩派と比べて自身の思想的立場を固め、安保闘争のあとに流行った「アカシアの雨がやむとき」を引き合いに歌謡曲を「疎外された大衆の、女の魂をなまなましく歌いあげる」という側面を強調した。 次いで1965年、竹中労「美空ひばり―――民衆の心をうたって二十年」が出版される。この中で竹中は、エリート階級による伝統的・日本的な歌への攻撃を批判し、その攻撃に耐えてひばりを民族的、民衆的な音楽の伝統を守った存在として称揚している。もっともこの書は他書の引用の段階などでロジック上のあやふやな点があり、デビュー当初の都会的なメロディーを歌うひばりの存在にはあまり言及されなかった。しかし、当時ひばりは新左翼論壇においても評価は低く、この論考は新鮮さを持って受け止められた。
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