日本調教馬の挑戦の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 18:36 UTC 版)
日本調教馬が初めて凱旋門賞に挑戦したのは1969年のことで、天皇賞馬スピードシンボリが出走して着外に敗れたものである。スピードシンボリが帰国後にグランプリ3連覇を果たしたことは、外国と日本との実力差を強調する結果となった。72年に天皇賞馬メジロムサシが18着、85年には日本ダービー馬シリウスシンボリもダンシングブレーヴの14着に敗れた。 1999年、4頭目の挑戦となるエルコンドルパサーは、サンクルー大賞を制して凱旋門賞ではモンジューから半馬身差の2着という結果を残し、日本の競馬界に希望をもたらした。 2006年には中央競馬クラシック三冠馬ディープインパクトが遠征したが、競走ではレイルリンクらに差されて3位入線という形で敗れ、さらに禁止薬物に関する違反により失格という結果に終わった(ディープインパクト禁止薬物検出事件)。 2010年に実績面で見劣りする宝塚記念馬ナカヤマフェスタがワークフォースからアタマ差の2着と好走すると、11年に三冠を達成したオルフェーヴルは実績・適正の両面で期待された。2012年オルフェーヴルは直線で急失速してソレミアの2着。翌2013年にはオルフェーヴルに加えてダービー馬キズナも出走したが、それぞれトレヴの2着・4着と完敗した。 日本調教馬による2着4回という最高着順は、欧州外からの挑戦としては健闘の域に入る(調教国も参照)。しかし、2014年頃から停滞が続くようになった。
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