日本識者の見解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 01:52 UTC 版)
日本学界では函普は架空の人物であり、実在の人物とはみなされていない。三上次男は、函普が説話において構想された架空の人物ということを前提に、神話(=説話)にはそれが創作された理由があり、函普の神話(=説話)が創作された理由を以下のように論じている。 「高句麗」は隋・唐以後の中国史料には一般に「高麗」と記される。正史において「高句麗」と記されるのは『漢書』『魏書』『宋書』『梁書』までであり、『周書』『隋書』『旧唐書』『新唐書』などは「高句麗」は「高麗」と記されている。例えば、『新唐書』の高句麗関連記事は、列伝第145東夷「高麗伝」に収められ、「高麗伝」の出典は『高麗記』(『翰苑』所収)である。唐に投降した高句麗貴族の高質(朝鮮語版)の息子の高慈の墓誌は『高麗圀』と記されている。日本でも「高句麗」を「高麗」と記した事例は枚挙に暇がなく、『日本書紀』天智紀10年正月丁末條は「高麗遣上部大相可婁等進調」と記しており、日本の神亀4年に来日した渤海使が携えた大武芸の国書は「復高麗之旧居,有扶餘之遺俗」と記され、天平宝字3年に来日した渤海使が携えた大欽茂の国書は「高麗国王大欽茂」と記すなど、いずれも「高句麗」を「高麗」と記している。『金史』世紀の劈頭には「黒水靺鞨居粛慎地,東瀕海、南接高麗,亦附干高麗,嘗以兵十五萬衆助高麗拒唐」と記されているが、ここに登場する「高麗」は「高句麗」であることはいうまでもなく、したがって、同じ『金史』世紀の函普の始祖説話に登場する「高麗」を10世紀に王建が建国した「高麗王朝」ではなく「高句麗」と解釈しても不自然ではない。函普の始祖説話は、完顔氏は高句麗の後裔であり、完顔氏に率いられた生女真国家こそが高句麗の後裔であるとする高句麗思慕感情を始祖説話の形を借りて表現したものである。 高句麗は紀元前後から7世紀まで約700年間満州と朝鮮に栄えた大国であることから高句麗滅亡後に満州で興起した民族・国家は何れも高句麗思慕感情をもっている。渤海は高句麗の復興を志して高句麗の後国を標榜し、定安国第2代王烏玄明(中国語版)が981年に女真の使者に託して宋に奉った上表には「臣本以高麗旧壌,渤海遣黎,保拠遇」と記し、定安国の領域を「高麗の旧壌」、民を「渤海の遣黎」と称している。『金史』胡十門伝は「吾遠祖兄弟三人,同出高麗,今大聖皇帝之祖入女直,吾祖留高麗,自高麗歸於遼,吾與皇帝皆三祖之後」と記しており、曷蘇館女真族の遠祖による高句麗来歴を信じていることがわかる。また、『金史』胡十門伝の末尾は「有合住者,亦称始祖兄苗裔,但不知与胡十門相去幾従耳(金室の始祖の兄の苗裔)」と記しており、曷蘇館女真族の合住家にも高句麗思慕感情があることがわかる。太宗の天会8年(1130年)に重臣完顔勗(中国語版)が奉った国書には「自先君與高麗通,聞我将大,因謂本自同出,稍稍款附」と記され、金建国以前の女真のある部族が完顔氏の高句麗来歴を知ると、祖先を同じくすると称して来帰したと主張している。 以上の主張は、王権と起源の正統性を高句麗から抽出したものであり、政治的に高句麗継承・出自を標榜することによる対外的・政治的優位性を獲得する意図があり、高句麗継承の標榜をそのまま血統的継承とみなすことはできないが、渤海、定安国、金王家の先祖である女真に高句麗思慕感情が假令潜在的・信仰的に内在していたことがわかる。金建国以前に満州で興起した渤海、定安国、金王家の先祖である女真が王権と起源の正統性を高句麗から抽出したように、函普の始祖説話は金王家をとりまく国際環境に対処すべく、すぐれて政治的な戦略として創作された。すなわち、金王家と高句麗とを接合することにより、高句麗の旧領域占有の正当性と歴史的根拠を獲得し、金王家の権威化・神聖化の獲得と王権の卓越性・優越性を促進するイデオロギーとして金王家と高句麗を接合したと解釈できる。 三上次男は「満州の民族を基礎として、かくも早く、この様に強大な国家が成立し、しかも永年に亙って存続したことは、満州の民族の歴史を飾る光輝ある事実と言わねばならぬ。されば高句麗の名は、以後の満州の諸族の脳裏に深く刻印され、高句麗は中世満州諸王朝の始祖とも言うべき地位を獲得した」「史実としては架空の事に属したとしても、単なる荒唐、単なる作為の説ではなく、一個の歴史的所産と云わねばならぬ。そこに重大なる意義を有している。かくて我々は、本説話の中に、中世に於ける満州国家の歴史的性格、満州族の有した民族思想の一端を見出すことが出来る。高句麗の名が如何に偉大なる魅力を持ち、卓越せる権威を有していたか、これによってほぼ推測することが出来る」と述べている。 完顔氏が高麗を「父母之邦(父母の邦)」「祖宗出自大邦(祖宗の地)」と崇めたのは、高麗王朝は高句麗と国号を同じくし、高句麗旧領を領し、高句麗の後国を標榜して建国したのであるから、高句麗思慕感情をもつ生女真は、高麗王朝を真の高句麗あるいは高句麗の正統と認識した結果、この様な言辞を発するに至った。阿骨打が1117年3月に高麗王朝に送った国書で自らを「兄大女真金国皇帝」とし、高麗国王を「弟」と称したのは、もはや金の国力が高句麗の威光および精神的支持を必要としないほど発展したためと解釈することができる。 古畑徹は、「完顔部は国家形成にあたり、渤海同様に二つの統合原理を使い分けた。一つは、粛慎 - 靺鞨(勿吉)の伝統、もう一つは高句麗の伝統である。前者は実際の系譜としての要素を持つため、北部靺鞨本来の地にいた諸族をまとめるのに有効だった。後者は、完顔部の始祖が高句麗出身の三兄弟の一人だとする説話で、遼東半島にいた熟女真(中国語版)の曷蘇館(中国語版)女真をその兄弟のもう一人の子孫とすることで、彼らの吸収に利用された」と述べている。 2022年1月9日、韓国メディア『朝鮮日報』は「中国王朝『金』の始祖は新羅系高麗人」と題する記事を配信し、東北アジア歴史財団のキム・インヒ委員の論文「金国の始祖・函普は新羅人」を取り上げ、金の始祖とされる函普は朝鮮半島出身で、その出身地については新羅、高麗、平州など諸説が入り乱れているが、平州を支配した勢力の推移からすれば、函普は新羅系高麗人とするのが正しい、と主張している。この主張について島崎晋は、「けれども、キム氏の主張でもっとも基本となる史料は金を滅ぼしたモンゴル族の元王朝時代末期、1344年に成立した『金史』という歴史書だった。そこでは、『金之始祖諱函普,初從高麗來,年已六十餘矣』(金の始祖の函普は60余歳のとき高麗から来た)としながら、『金之先,出靺鞨氏』(金は靺鞨氏の出身である)とある。歴史上、靺鞨は満洲族(女真)と同じツングース系とされている。つまり、キム氏は生まれ育った場所だけで論を進め、函普がツングース系でないとする根拠を何一つ挙げていない。『金史』を素直に読む限り、函普は朝鮮半島で生まれ育ったツングース系の民で、戦乱で身に危険を感じたため、同族が多く住む鴨緑江以北に逃れたとみるのが自然だろう」と指摘している。 小川裕人は「金室完顔氏の高麗より移住した伝説」「金の開国伝説に於いて、金室完顔氏の始祖は、高麗人でありながら、安出虎水完顔部の始祖となり、彼の弟は耶懶路完顔部の始祖、彼の兄は曷蘇館路完顔部の始祖となったとされて居る。これは固より一の説話に過ぎない」「金室完顔氏の開国伝説」と述べている。 池内宏は「始祖の事歴とせらるる此の物語は生女直の習俗の起源を説明したる一の説話に過ぎざるべし」「斯くして献祖の事績として傳えられたるものは、始祖函普のそれの如く一の説話に過ぎざるべき」「始祖以下五代の事績として世紀に記るされたる物語の歴史的事実にあらざるべきは前章に述べたる」「果して然らば特に石顯の名を闕いて世紀に記るされたる昭祖の終焉の伝説は、始祖兄弟を高麗より來れりとする所伝と同様、亦た本来完顔氏自身のものにあらず」「始祖より昭祖に至るまでの五代の物語の批判は、以上章を重ねて述べたるところ(中略)其の物語の内容は悉く歴史的事実にあらずして、或は他の女直部族のものを附会して構成し、或は女直民族通有の習俗に対して説話的に其の起源を説明したるに外ならず。而して一方には世系を延長すべく始祖と景祖との間に四代の人物を設けし微証さへありて、昭祖及び以前の五祖が何れも空想の人物なるは殆んど疑いを容れざるところなり。随って金史后妃伝に記るされたる五祖の配、并に其の所出として『始祖以下諸子伝』に見えたるものは悉く信を措くに足らず」「高永昌の招諭に応ぜざるむとしたる胡十門が其の族人に語れりと伝うる言について考うるに、斯かる地方の斯かる女直が、生女直の完顔氏と其の遠祖を同じくし、然かもそが高麗人なりというは、到底事実とは思われず」「阿骨打の招諭の辞(渤海人と女直とは共に古の靺鞨であり、元は同一種族であるという『女直・渤海本同一家』)を迎え、其の意に投ぜむとして仮託の言をなしたるものにして、又た其の遠祖を高麗よりの移住者となせるは、高麗の地が曷蘇館(中国語版)に隣接し、且つ思想上の大国なるに由れりとすべし」「世紀に記るされたる完顔氏の三祖の伝説は、本来完顔氏自身のものにあらず、実は祖宗実録の編者完顔勗等が、胡十門の言に由来したる其の三祖の伝説に多少の修飾を加え、且つ三祖の各に其の諱を興えしに過ぎざるべきを」「完顔氏の遠祖の伝説を構成」「女真民族の間に於いて、渤海国は思想上容易く滅びざるなり。完顔氏の始祖の兄を隣境の大国たる高麗に留まれりとなしたる祖宗実録の編者が、渤海の古都の附近を其の弟の徒住地に擬せしは、即ちこれが為めならずんばあらず」「(函普の弟の)保活里は空想の人物なれば、これに子孫のあるべき理なし」「然かも空想の人物なる保活里」「斯くの如く完顔氏の祖先の世系には二様の所伝ありて、一は景祖の前に五代を数え、他は高麗よりの移住者とせらるる一祖を挙ぐるに止まる。然るに世紀に始祖以下五帝の年寿の長短は之を考ふるに由なしとて、生年・卒年の記載を闕き、且つ前章に述べたる如く、其の物語に歴史上の事実、実在の人物の事績と認め得べきものなしとせば、上の二伝の中、後者の真実に幾きは固より論なかるべし。即ち前者は相承の久遠なるを装う為めに、故ら後者を延長したるものならざるべからず。而して其の系譜の製作は、恐らく熙宗の即位の初め十帝の諡号及び、廟号を定めし際にありしなからむと思わる」「金の遠祖は空想の人物なるべきも、そが何故高麗よりの移住者とせられしかは、亦た特に孜究を要する」と述べている。 内藤湖南は、『女眞種族の同源傳説』において、契丹の耶律阿保機が、女真が反乱することを恐れ、女真の豪族数千家を分けて遼陽の土地に移して、契丹に帰化させた因縁により、熟女真が生女真から分離したが、「然るに此の女真人が後になつて金国を興した時に、生熟女真に関する伝説は頗る変化を来して、一種の移住伝説となっている」「以上は女真の中の異なった種族が最初分れた所の事実を、後になって其子孫に伝へられた伝説によって語られるまでには、如何に其中途で変化をした」として、しかし「事実に於ては、其敵たる契丹人の圧迫を受けて、一部分が移住させられたのであるにも拘らず、後世になると、僅か百余年を経過する間に、既に真の事実を忘れて、兄弟が個々別れ別れになって、高麗から移って来たといふような話に変化している」として事実ではないとしている。 今井秀周(東海学院大学)は「史実としての信憑性に欠ける」と述べている。
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