勢力の推移
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「新潟県第3区 (中選挙区)」の記事における「勢力の推移」の解説
この新潟3区は同選挙区から唯一内閣総理大臣になった自由民主党の田中角栄の選挙区であることで知られていたが、それでも田中の影響力は最初のうちは大きいとは言えなかった。むしろ地主や商家出身だった亘四郎らの方が強く、田中は彼らの後塵を拝していた。田中の勢力が伸びるようになったのは選挙区の中でも辺境とされた魚沼地区への浸透に加え、長岡鉄道の社長となって沿線に当たる三島郡で支持を拡大してからで、1952年の第25回衆議院議員総選挙でトップ当選を飾って以来は田中が、亘や大野市郎・更には1960年の第29回総選挙で初当選した村山達雄を凌駕する勢いとなる。 その一方、日本社会党が戦前の農民運動で得た強力な支持基盤を残していた。戦前の中選挙区だった旧新潟3区では、三宅正一が1936年の第19回総選挙で社会大衆党公認として当選している。戦後は三宅が公職追放となるも、代わりに小林進や稲村順三が当選。三宅も公職追放解除後の1952年(第25回)で新潟3区に復帰した。同じ農民運動出身とは言え、右派の三宅・小林と左派の稲村では支持基盤や政策に違いがあり、このため社会党は1955年(第27回)と1960年(第29回)に3議席を獲得した。それでも党勢の退潮に伴い、1969年(第27回)には左派の稲村稔夫が落選、以降は候補者を右派の三宅・小林に絞込む。田中が地元の地域振興策で社会党の地方議員や首長との良好な関係を維持し、左派の教条主義と距離を置いた右派が強かった事などから、新潟3区では越山会と社会党の温存が並立した。 1970年代以降は、後援会「越山会」が選挙区の隅々まで組織された強力な「田中支配」の下、田中角栄が何票獲得するかが毎回注目され、その残りを他の候補者で争う構図となった。1976年の第34回総選挙では、中曽根康弘の秘書だった渡辺秀央が初当選(大野が落選)。1979年の第35回総選挙では、当時越山会青年部長だった桜井新が造反して立候補。この時は落選したものの、翌1980年の第36回総選挙で初当選を果たし以後当選を重ねた。 1983年、ロッキード事件の一審判決直後の第37回衆議院議員総選挙、通称「ロッキード選挙」では、実刑判決を受け控訴中の身で自由民主党を離党していた田中を越山会は地元と国政への功績を強調して称え、参議院議員を辞職して立候補した野坂昭如らを抑えた田中は22万票余を獲得して当選し、全国での自民党の敗北と好対照をなした。他候補者は3倍の正規分布の得票だったが、角栄は9.33倍だった。統計的には9シグマ以上、100兆分の1以下の確率である。「超自然的な事象」であり、「天才たる所以である」と池田信夫は評している。 1986年の第38回衆議院議員総選挙で自民党は圧勝するが、1985年に脳梗塞で倒れ、政治活動どころか日常生活まで重大な支障を来した田中は全く選挙活動ができなかった。この時は越山会が「オヤジ(田中)のために花道を」と精力的に活動し、17万9千票余りの大量得票で田中に連続16期、そして最後の当選を贈った。 田中が引退し、消費税が導入された後の1990年(第39回)では、田中票をめぐって星野行男(小千谷市長)と諸里正典(十日町市長)が出馬。更に全国的な社会党への支持率の高まりから、社会党も久々に2人当選を狙う。だが、前職の渡辺と桜井に加え大蔵大臣だった村山が逆風の中で最下位当選、保守系新人は星野のみが当選した。社会党も新人の目黒吉之助だけの当選にとどまり、前職の坂上富男は落選に終わっている。最後の選挙になった1993年の第40回では角栄の娘の田中眞紀子が出馬し、トップで初当選を果たした。田中と星野は小選挙区制になった1996年の第41回衆議院議員総選挙で新潟5区から共に立候補し、田中が当選した。 その他の党では、公明党が1969年(第32回)と1972年(第33回)に次点に入り、当選まで肉薄したが、1960年に候補を擁立した民社党が田中逮捕後の1976年(第34回)・1979年(第35回)に候補を立てると中道政治勢力の票が分散し、いずれも当選に届かなかった。選挙区内での支持を広げられなかった日本共産党は当選圏内から遠く、その他の党も自民党成立後は星野が旧田中派の流れを汲む新生党で当選した以外は振るわなかった。
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勢力の推移
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「東京都第1区 (中選挙区)」の記事における「勢力の推移」の解説
首都東京のトップナンバー選挙区として各選挙で高く注目され続け、各党も幹部クラスや知名度の高い候補を擁立して、同区での勝利に力を入れた。 当初、この地域は都市労働者の支持を得た革新勢力の力が強く、最初の1947年・第23回衆議院議員総選挙では浅沼稲次郎・原彪の日本社会党が2議席、野坂参三の日本共産党が1議席を獲得する革新優勢の結果となった。野坂は続く1949年の第24回総選挙でトップ当選となったが、1950年に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)から公職追放処分(レッドパージ)を受けて失職した。 1950年代の4回の総選挙では共産党が議席を失い、1955年に自由民主党へ統合された保守勢力と、右派の浅沼と左派の原が議席を確保した社会党が2議席ずつを分け合った。保守側では1952年の第25回総選挙で戦争直後の公職指定が解除された鳩山一郎と安藤正純という2人の大物政治家が議席を占め、特に1955年の第27回総選挙では総理大臣になった鳩山と右派社会党書記長の浅沼が争う党首対決となったが、鳩山がトップ当選となった。 この状況を変えたのが麻生良方だった。浅沼の秘書だった麻生は1959年に民主社会党の結党に参加し、1960年の第29回総選挙で民社党公認で立候補して社会党委員長となった浅沼と対決した。この選挙の公示前に浅沼が赤尾敏が率いる大日本愛国党の元党員だった少年に刺殺される暗殺事件が発生し、社会党は妻の浅沼享子を擁立して原との2議席を守り、麻生は次点に終わった。しかし、続く1963年の第30回総選挙で当選し、1期で引退した浅沼享子の議席を引き継げなかった社会党が後退した。 1967年の第31回総選挙からは分区後の新区割りで選挙が行われた東京1区は、定数3を巡って各党が競う激戦区になった。自民党は安藤の死後の第27回総選挙から当選を続けた元警視総監の田中栄一に続く2人目の議員を出せず、社会党 は広沢賢一が1969年の第32回総選挙で落選し、1972年の第33回総選挙には加藤清政が議席の奪還に成功したものの1976年の第34回総選挙で落選するなど往時と比べて勢力の弱体化が目立った。広沢に代わったのは公明党の渡部通子だったが、第33回総選挙で敗れ、1979年の第35回総選挙で初当選した同党の木内良明も3回当選の反面2度落選して、選挙上手といわれて候補当選率の高い同党の中では例外となった。共産党は全国で躍進した第33回総選挙で紺野与次郎が当選して議席を奪回したが、これも1期で終わった。民社党の麻生は第33回総選挙で落選し、政界引退を表明してテレビ番組などで評論活動をしていたが、第34回総選挙に「完全無所属」を宣言して同区から返り咲いた。 この中、都心のドーナツ化現象によって選挙区内の人口、特に労働者の有権者が減少し、全体の年齢が高齢化した事は、同区での投票行動を保守化し、自民党に有利、社会党に不利に働くと分析された。自民党は第34回総選挙で新人の与謝野馨と大塚雄司が当選し、分区後初めて2議席を得た。続く1979年の第35回総選挙では与謝野が落選したが、1980年の第36回総選挙では再び2人当選に成功し、以後は共に当選を重ねた。一方、伝統の東京1区の議席を守りたい社会党は第35回総選挙で飛鳥田一雄委員長を同区から立候補させ トップ当選に成功したが、次の第36回総選挙では第24回総選挙の片山哲以来、史上2人目の同党委員長落選の危機が迫り、107人が当選した同党の候補で最後に当選確実が伝えられるほどの辛勝だった。1983年に飛鳥田が委員長を辞任して議員引退も表明すると、同年の第37回総選挙で社会党は佐々木秀典を擁立したが落選し、議席を再び失った。1990年の第39回総選挙で「マドンナ旋風」に乗る社会党は鈴木喜久子をトップ当選させ、7年ぶりに議席を得たが、同党が惨敗した1993年の第40回総選挙では落選した。 この第40回総選挙で吹き荒れた「新党ブーム」はこの東京1区でも起こった。テレビなどで活躍する経済評論家の海江田万里が日本新党から出馬してトップ当選を決め、3位では新生党公認を得た柴野たいぞうが初当選した。この煽りで、自民党では大塚が7選を阻まれ、14年ぶりの1人当選(与謝野)となった。そして、海江田・与謝野・柴野の3人が、同じ区割りで小選挙区制に移行した新たな東京1区で1996年の第41回総選挙を争う事になった。 東京1区は国会・官公庁のある政治の中枢であることから、当選の可能性がほとんど見込めない、いわゆる泡沫候補が多く出馬する選挙区でもあった。衆議院議員経験のある赤尾敏や平井義一・小田天界 の他、深作清次郎・南俊夫・太田竜・東郷健などが諸派ないし無所属で立候補したが、当選からは遠かった。第39回総選挙ではオウム真理教が組織した真理党から教祖・松本智津夫(麻原彰晃)の妻の松本知子が立候補したが、惨敗している。
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