勢力の陰りとその死とは? わかりやすく解説

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勢力の陰りとその死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 07:19 UTC 版)

織田信秀」の記事における「勢力の陰りとその死」の解説

天文13年1544年)に道三の居城稲葉山城攻撃し城下まで攻め込んだが、道三の反撃受けて大敗する加納口の戦い)。そして、天文17年1548年)には犬山城主・織田信清(弟・信康の子)と楽田城主・織田寛貞謀反起こすが、これを鎮圧して従属させた。同年、道三が大垣城奪還のために攻めよせ、救援のため信秀出陣し後ろ巻きするが、その留守中に織田達勝の跡を継いだ織田信友古渡城攻めたことにより、帰って大和守家とも争うが、翌年には和解している。大垣城はやがて道三側に取り戻された。 天文16年1547年)の9月信秀松平広忠岡崎城攻め落とし広忠降伏させた。また、広忠嫡男竹千代(後の徳川家康)が織田家人質になったのもこの時の出来事考えられている。また、これに対して、翌天文17年1548年)には斎藤道三松平広忠働きかけて、斎藤氏今川氏結んだ広忠挙兵(『武家伝記』)し、斎藤道三今川義元信秀対抗するために積極的な工作をしていたと考えられている。 さらに、同年第2次小豆坂の戦い今川方の太原雪斎敗北次第今川斎藤押され守護代大和守家とも紛議苦しむようになった。そのため、この年斎藤氏和睦して、条件として信長濃姫との婚姻決まり、翌天文18年1549年2月にこれを娶った。しかし、翌3月には、信秀勢力三河より駆逐せんとする今川が、織田方の西三河支配牙城であった安祥城太原雪斎を将とする約1万軍勢送った城主であった庶子信広の奮戦により、一度はその攻撃退けたものの、今川同年9月に再び出兵平手政秀援軍として安祥城送られたが、11月安祥城陥落したこの後西三河南部における織田方の勢力総崩れ様相呈し、更に信広が今川氏捕縛されたことで、人質としていた松平広忠嫡男竹千代(後の徳川家康)との交換が行われ西三河での勢力失った同年頃から病に冒され臥せるようになり、周囲関係者にも病中知られ11月には信長が「執達」し代行して藤原信長」名で熱田制札出して信長所見文書ともなっている。天文19年1550年8月今川軍勢により、知多郡水野家降伏して、その翌年12月には愛知郡鳴海城山口教継今川方となり周囲調略して、信秀側の勢力が削がれるという困難の続く中、天文21年1552年3月3日末森城死去した享年42家督嫡男信長継いだ葬儀萬松寺行われ僧侶300人を参集させた壮大なのだった没年には、天文18年1549年)説や、天文20年1551年)説や、天文21年1552年3月9日説がある。

※この「勢力の陰りとその死」の解説は、「織田信秀」の解説の一部です。
「勢力の陰りとその死」を含む「織田信秀」の記事については、「織田信秀」の概要を参照ください。

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