勢力争いの境界に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 02:55 UTC 版)
「岩屋城 (美作国)」の記事における「勢力争いの境界に」の解説
それからしばらくは芦田秀家、続いて子である芦田正家の統治下に在ったが、天正2年(1574年)に宇喜多直家が浦上宗景より独立するにあたって備前と美作の連絡路にあたる岩屋城に目を付け、同年3月に原田貞佐・花房職秀の奇襲によってわずか一日で陥落し、城代には宇喜多家臣浜口家職が置かれた。 その後も浜口家職が城代を務めていたが、天正8年(1580年)に宇喜多直家が毛利氏と手切れして織田氏と結んだことで、戦略的に重要であるこの岩屋城も毛利氏の標的とされた。 天正9年(1581年)、毛利家臣で葛下城主であった中村頼宗(かつての美作守護代中村氏との関連は不明)は岩屋城の奪取を狙い、少数精鋭の決死隊を組織。暴風雨の夜に密かに城へと接近すると、敢えて最も峻険な「落し雪隠」をよじ登って本丸へと押し入り浜口家職を放逐し、わずか32人で岩屋城の奪取を成功させる。この功によって毛利輝元は中村頼宗を岩屋城主に任じた。 宇喜多氏としても本拠地岡山の喉元に位置するこの城を奪われたことは由々しき事態で奪還の為に度々出兵したが、頼宗はよくこの城を守り奪還することは出来なかった。
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