決死隊
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決死隊(けっしたい)とは、死傷を被るリスクが高いと考えられるが、それでも戦果が必要と考えられた際に実行される「甚大な被害を覚悟した部隊を使った戦術」である。バンザイ突撃や白襷隊などが代表例である。
世界での決死隊
英語では「forlorn hope」(絶望的希望)と言い、元はオランダ語の「verloren hoop」(失われたフープ:失われた軍隊)を翻訳した際の誤訳である。オランダ語でhoopは「希望」も意味するが、軍文書の上では部隊を意味する用語として使われていた[1][2][3]。
マスケット銃を使用していた時代、隊列に切り込むボランティア(志願兵)の部隊で死傷率が高かったが、生き残った場合は高額の報酬や名誉が得られた為に参加する者たちは多く、この用語はもっとも多く使われた。
フランス語の表現では「 Les Enfants Perdus(The Lost Children:失われた子供たち)」とされる。
現代戦の代表例では、フォークランド紛争におけるイギリス軍の銃剣突撃などが上げられる。
東日本大震災における福島第一原子力発電所事故におけるウェットベント作業、また東海村JCO臨界事故における水抜き作業で、計画被ばくを覚悟した職員らは決死隊と呼称されていた。
関連項目
- キャノンフォダーen:Cannon fodder(大砲の餌食):敵の攻撃によって損耗することが確定している部隊を非公式に侮蔑した表現。第一次世界大戦の新兵など
- 懲罰部隊
- 特別攻撃隊
- 人海戦術
- 自爆テロ
- 突撃
- バダホスの戦い(1812年)
参考文献
- ^ Oxford English Dictionary: "forlorn hope"
- ^ Kilian, Cornelius (1593). Etymologicum Teutonicæ Linguæ. Antwerp: Jan Moretus (cited in Oxford English Dictionary)
- ^ Merriam Webster: forlorn hope
決死隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 15:21 UTC 版)
「決死隊」の参加者名前年齢アントニオ* 23‡ ルイス* 19‡ サルバドール* 28‡ チャールズ・バーガー† 30‡ パトリック・ドラン* 35‡ ウィリアム・エディ 28‡ ジェイ・フォスディック* 23‡ サラ・フォスディック 21 サラ・フォスター 19 ウィリアム・フォスター 30 フランクリン・グレイブス* 57 メアリ・アン・グレイブス 19 レミュエル・マーフィー* 12 ウィリアム・マーフィー† 10 アマンダ・マクカッチェン 23 ハリエット・パイク 18 チャールズ・スタントン* 30 *途中で死亡†峠を越す前に引き返す‡推定年齢 トラッキー湖畔では死者が出始めた。スピッツァーが死に、次いでベイリス・ウィリアムズが飢餓よりむしろ栄養失調で死んだ。フランクリン・グレイブスは牛のくびきと革から14足の西洋かんじきを作り、男女と子ども合わせて17人からなる班が徒歩で峠越えに挑むことにした。状況の過酷さを示すことに、その際17人中父親4人と母親3人は子どもをほかの女性に託して参加した。彼らは荷物を最小限とし、6日分の食料、ライフル銃1挺、各人に毛布1枚ずつ、手斧1挺、そして拳銃数丁のみ携行し、ベア渓谷を目指した。歴史家のチャールズ・マクグラシャンは、後年このかんじき隊を決死隊と呼んだ。かんじきのないチャールズ・バーガーと10歳のウィリアム・マーフィーは早期に引き返した。そのほかの者は、最初の晩に、持っていた荷鞍のひとつからかんじき1足を作ってレミュエルに履かせた。 かんじきは扱いづらかったが困難な上りで役立った。一行は全員栄養不良のうえ、深さ12フィート(3.7メートル)の雪中での野営にも不慣れで、3日目には大半が雪眼炎になっていた。6日目、エディは自分の荷物の中に妻が0.5ポンド(230グラム)の熊肉を忍ばせていたのを発見した。12月21日朝に一行は再出発した。その際、ここ数日間遅れがちだったスタントンが、あとからすぐに追いかけると言って残った。スタントンの遺体は、翌年その場所で発見された。 一行は道に迷ってしまう。食料が尽きて2日後、パトリック・ドランが、誰か1人が身を捧げて食料になるべきだと言った。ある者は決闘を提案し、また犠牲者を決めるくじを作ろうとしたという証言もある。エディは単に誰かが倒れるまで進むことを提案したが、猛吹雪で進めなくなった。最初に御者のアントニオが死に、続いてフランクリン・グレイブスが死んだ。 猛吹雪が続くなか、パトリック・ドランが錯乱してうわごとをわめきながら服を脱ぎ捨てて森に走り込み、じきに戻ってきたが数時間後に死んだ。それからほどなくして、12歳のレミュエル・マーフィーが瀕死だったためか、一部の者がドランの肉を食べ始めた。レミュエルの姉は弟に少しでも食べさせようとしたが、レミュエルはまもなく死んだ。エディ、サルバドール、ルイスは口にするのを拒んだ。翌朝、一行はアントニオ、ドラン、グレイブス、マーフィーの遺体から肉と内臓をはいで保存食とするため干したが、その際に親族が親族を食べることがないよう配慮した。 3日後、一行は道を探して再度出発した。エディもやがて飢えに屈して人肉を食べたが、それもすぐになくなった。一行はかんじきの紐に使われていた牛革を食べ、ルイスとサルバドールを食用に殺すことを議論したが、エディが2人に警告して2人は密かに立ち去った。夜にジェイ・フォスディックが死亡し、残るは7人となった。エディとメアリ・グレイブスが狩りに出て、鹿肉を持ち帰ったところ、フォスディックの遺体はすでに食用に解体されたあとだった。さらに数日後、トラッキー湖畔を出発して25日目に、9日間近く絶食して死に瀕したルイスとサルバドールを見つけた。ウィリアム・フォスターは、これを餓死を免れる最後の希望だとして2人を射殺した。しかし、ジョセフ・A・キングは、フォスターに撃たれたときに2人が死にかけていたという説に異を唱えており、「サッター大佐がほかの生存者から聞いた話では、大佐の『良き部下たち』(サルバドールとルイスのこと)はドングリを集めている最中に殺された」としている。 1月12日、一行はミウォーク族(英語版)の宿営地に転がり込んだが、凄惨な姿に驚き住人が当初逃げ出すほどだった。ミウォーク族は彼らが食用するドングリや山菜、松の実などを分け与えた。数日後、エディはミウォーク族の助けを借りてサクラメント渓谷の端に位置する小さな農場にたどり着いた。急遽救助隊が送られ、ほかの生存者6人を1月17日に発見した。トラッキー湖畔からここまで33日間かかったことになる。
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