バンザイ突撃
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バンザイ突撃(バンザイとつげき)は、太平洋戦争中に実行された、玉砕前提の突撃のことである。
概要
戦術的な意味よりも、「捕虜になる位なら誇り高く潔く死ぬ」という思想のあらわれ[1]とも言われ、敵軍優勢の中、補給や増援を望めず撤退も不可能な状況の日本兵が、自決する際のように「天皇陛下万歳」「大日本帝国万歳」などの雄叫びを上げて突撃する事を指す。「万歳」の喊声とともに敢行されることから、連合軍兵士から「バンザイ・アタック」(Banzai attack)または「バンザイ・チャージ」(Banzai charge)と呼ばれ、バンザイ突撃とはこれが和訳されたものとされる。英語から再輸入された日本語由来の言葉であるので、漢字で「万歳突撃」と書かれることもある。なお日本陸軍の『歩兵操典』など教範では、突撃に際して「突っ込め」の号令にて喊声を発すると記しているが、喊声の具体的な文句については規定されず、夜間の突撃では喊声を発しないとされていた。
戦術的意義
島嶼部での戦いでは、長期の包囲により備蓄した食糧弾薬が不足し、輸送船も沈められ補給が望めない日本軍によって行われたが、自動火器や火砲の充実したアメリカ軍に対し、武器弾薬の欠乏した日本軍が突撃によって勝利した事例は無い。これに対し、アッツ島の戦いやタラワの戦い・ビアク島の戦い・ペリリューの戦い・硫黄島の戦い・沖縄戦・ソ連対日参戦などではこうした自殺的突撃が戒められ、防御線を敷いた持久型の縦深防御戦術が採られた。ペリリュー島で戦った海兵隊員ユージーン・スレッジは自著[2]に、バンザイ突撃が始まり、これを撃退すれば早々に決着がつくので、むしろ行われるのを待ち望んでいた[3]と記している。設置した重機関銃をバンザイ突撃に対し左右一方から反対サイドに水平掃射すれば事は片付き、また、日本軍がバンザイ突撃をかける際には、その前にざわついたり、逆に水盃を交わして静まりかえったりするので、タイミングも非常に分かりやすかったとされる。一方で、バンザイ突撃とは異なり、夜戦で静かに極力接近してからの白兵突撃は海兵隊にとっても脅威となった。
米陸軍第442連隊戦闘団における「バンザイ突撃」
第二次世界大戦の欧州戦線において、日系人のみで編成されたアメリカ陸軍の「第442連隊戦闘団」は、日本語の「バンザイ」を含む各種の雄叫びを上げての突撃を実行した。ただし、「進退窮まった部隊が最後の戦術として行う自殺的な突撃」を意味する「バンザイ突撃」とは別物で、戦術としての、鬨の声を上げての白兵突撃である。用いられた言葉も「バンザイ」だけではなく、ピジン英語で「死ね」という意味の「マケ」、日本語の「バカヤロー」など、個々の兵士の叫び声がこだまし、その絶叫は近隣の村にまで響く程であったという。
一説には1943年11月3日のナポリ南方、ボルツレノ川渡河作戦で、ドイツ軍狙撃兵に対しスコップを武器として突撃をかけたのが最初とされる。この時は個人による突撃に続いた小隊規模のものであったが、後に戦闘の決着をつける、着剣しての白兵突撃が中隊単位でも行われるようになった。もっとも、日系部隊に限らず最後の突撃は一般的に見られたが、特にブリュイエール(ブリエラ)の解放を巡る戦いでこの戦法が多用され、戦場となった丘は記録者により「バンザイヒルズ」と命名され、アメリカ国務省に報告されたという。
ロシア軍における「バンザイ突撃」
2022年ロシアのウクライナ侵攻において、ロシア軍がウクライナ軍に対して1日24時間絶え間なく1時間に一回程度、分隊位の人数で日本語のバンザイを叫びながら突撃した。これは、バンザイ突撃をしてくるロシア軍に対してウクライナ軍が応射することで、ロシア軍がウクライナ軍の陣地の場所を特定するために行ったものだと考えられる[4]。
脚注
参考文献
- ガダルカナル島戦の核心を探る 勝股治郎著 ISBN 978-4938893040
- 歴史群像 2008年10月号
- ペリリュー・沖縄戦記 (講談社学術文庫) ISBN 978-4061598850
関連項目
バンザイ突撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 10:48 UTC 版)
陸海軍3将官の自決後に、陸海軍の連携が乱れる事件が発生した。師団長の斎藤が自決したため、参謀長の鈴木が斎藤に代わって総攻撃の指揮を執ると海軍に申し出たところ、海軍側の中部太平洋方面艦隊高級参謀葦名三郎大佐が、まだ南東方面航空廠長の佐藤中将や第5根拠地隊の辻村武久少将が健在であったことから、海軍中将や少将が陸軍大佐の指揮を受けることはできないと反発し、最後の最後になって陸海軍が袂を分かつこととなり、南雲が命じた総攻撃不参加を宣言して席を立っている。しかし、結局は海軍部隊の多くは葦名には従わずに最後の突撃に加わることとなり、最後の突撃部隊は、陸海軍の残存部隊のほか、行き所を失った日本人住民の多くが、軍民が全力で造成を続けてきたパナデル飛行場周辺に集まっており、そのなかから一緒に突撃に加わると志願する者も相次ぎ、軍民入り混じった混成部隊でおおよそ3,000名となった。しかし、武器が無い者も多く、棒に銃剣を結び付けたものや、石を持っただけの者もあった。突撃部隊は3軍に分けられ海軍基幹部隊は海岸沿いに、陸軍基幹部隊の2軍は中央と山地に分かれて突撃することとした。海軍部隊には残存戦車5両が先頭を進む事になっていた。7月6日の日没後に自決した3将官の遺体を火葬に付すと7月7日3時にアメリカ軍に向かって進撃を開始した。これについても、陸海軍が決別することはなく、陸軍部隊は鈴木、海軍は南雲が率いて突撃したという証言もあって詳細は不明である。 アメリカ軍は攻撃直前となる7月6日の日没後に捕らえた日本兵の捕虜からこの攻撃の情報を得ており、各部隊に警戒体制をとらせていた。とある海兵隊兵士は「バンザイ突撃」の観覧を呼び掛けるジョークポスターを作っている。そのポスターには「酒に酔っぱらったジャップどもの突撃の様を見よ。アメリカ海兵隊の優秀な兵士たちの実弾演習の様子を見よ。今晩オールナイト上演。入場無料、さぁお友達を連れていらっしゃい」と書いてあったが、ホーランド・スミスはアメリカ軍兵士の士気を煽るため、そのポスターを複製して全部隊に配布するよう命じている。しかし、「スミスVSスミス事件」で混乱が続いていた第27歩兵師団は、その元凶となったホーランド・スミスからの再三の警告を軽く見て哨戒を十分に行っていなかった。さらに、アメリカ軍は日本人が集団をなしているのを発見すると、それが兵士であろうが民間人であろうが構わず、激烈な砲爆撃が浴びせてズタズタにしていたが、第27歩兵師団の警戒が甘かったため、日本軍が突撃準備に集まっていることも察知できていなかった。そのため日本軍は入念に突撃準備を行うことができた。 7月7日の午前3時に出撃した日本軍は、午前4時30分にサイパン西岸を進撃していた第27歩兵師団第105連隊の前線を襲撃した。攻撃前に日本軍は突撃前に入念な偵察をして、第105歩兵連隊の前線の警戒が弱いことを察知しており、日本軍は海岸伝いと森林を抜けて鉄道伝いの2方向から突撃してきた。第105歩兵連隊は前面に見通しの悪い丘があったにも関わらず偵察を出しておらず、日本軍の接近を察知することができなかった。第105連隊が日本軍の突撃に気が付いたときには既に目前に迫っていたうえ、多数の兵がまとまっていたため射撃が間に合わず近接戦闘に引きずり込まれる事となり、たちまち海岸側に配置されていた第2大隊が包囲された。日本兵の多くが銃剣や軍刀や棍棒しか所持しておらず、アメリカ兵は銃撃ではなく斬撃や殴打で多数が殺傷された。第2大隊長エドガー・マッカーシー少佐は日本軍の突撃を「その様子はまるで前に見た映画でバッファローの集団が突進してくるシーンに似ていた。それを地面に設置したカメラで見上げている様だったが、日本兵は次々と突撃してきて立ち止まる事はなかった。」と述べている。 第105歩兵連隊は砲撃支援を要請、近くにいた第10海兵連隊の12門の野砲が支援砲撃を行ったが、距離があまりに近かったため、砲身をほぼ水平にし、さらにすぐに砲弾が炸裂するように、信管を0.25秒で点火するようセットして砲撃した。それでも敵味方が入り交じっているため、友軍に誤射してしまうこともあった。日本軍は第2大隊の前線を突破すると、その奥に配置されていた第1大隊も包囲した。両大隊はタナバク村に陣地を築いて生存を図ったが、突撃部隊との激しい近接戦闘が行われ、第105連隊第1大隊長 ウィリアム・J・オブライエン(英語版)中佐は、突撃する日本軍に対して二丁拳銃で応戦、それを撃ち尽くすとジープに設置してあったブローニングM2重機関銃で突撃兵多数を殺傷、それも撃ち尽くしてしまうと、「第105連隊の第1大隊と第2大隊には、現在わずか100名の兵士が残っているに過ぎない。後生だから、弾薬、水、医療品を直ちに送って欲しい」と緊急支援要請を打電した直後に日本兵に斬殺されてしまった。オブライエンは死後にメダル・オブ・オナーが送られている。日本軍は残された数少ない迫撃砲で支援砲撃を行っていたが、その砲撃がアメリカ軍に大きな損害を与えた一方で、日本軍は友軍の中にも躊躇なく砲撃したため、友軍の迫撃砲弾に倒れる日本兵も多かった。 第105歩兵連隊の第1線を突破した日本軍は、その後方に展開していた第10海兵連隊第3大隊H.S砲兵中隊にも迫った。生き残っていた95式軽戦車が突進してきたので、海兵隊は野砲を水平にして零距離砲撃で戦車を撃破したが、その間に日本兵は第10海兵連隊第3大隊H.S砲兵中隊指揮所を背後から襲撃した。たちまち乱戦となり、12門の砲の一部は日本軍に奪取され2門が破壊された。海兵隊員は塹壕の中で必死の応戦を行ったが、第3大隊長のウィリアム・L・クラウチ少佐が戦死している。この砲兵陣地を攻撃したのは陸軍大佐に率いられた海軍部隊が主力の一団であり、指揮官の巧みな指揮による組織的な攻撃であったという。 夜を徹して激しい戦いが繰り広げられたが、アメリカ軍は夜明けと共に体勢を立て直すと、予備に回っていた第2海兵師団が主力となって反撃を開始した。戦闘は昼まで続き日本軍の突撃部隊は壊滅し、多くの日本兵が自決をしたり、最後を悟って無抵抗で殺され、ここで日本軍の組織的抵抗は終わりを告げた。アメリカ軍が確認した遺体は、バンザイ突撃で戦死した兵士の他、自決した民間人も含めて4,301体にも上り、いたるところに日本人軍民の多くの遺体が積み重なっていた。一方で、孤立したアメリカ軍第105歩兵連隊の2個大隊は、定員1,200人のうち、戦死者409人、戦傷者650人の損害を被って ほぼ全滅状態となった。海兵隊の損害も含めると、日本軍のバンザイ突撃で被った損害は1,500人を超えており、サイパンにおけるアメリカ軍の損害をさらに増大させた。 日本軍のバンザイ突撃を撃破したアメリカ軍は翌7月8日より北端に向かって掃討作戦を開始した。サイパンにおける戦いの終盤戦は、ホーランド・スミスがタポチョ山とバンザイ突撃で大損害を被った第27歩兵師団を後方に下げたため、第2海兵師団と第4海兵師団の手柄争いとなり、各部隊は最後の土地を占領するといった功績を勝ち取るべく、あたかも徒競走のように争った。日本軍は洞窟や草むらに潜み絶望的な抵抗を行ったが、アメリカ軍は火炎放射器と爆薬で容赦なく日本軍を殲滅しながら前進し、7月9日には日本兵と日本人民間人を北端のマッピ山北面やマッピ岬に追い詰めた。追い詰められた多くの日本兵や民間人は、アメリカ軍による投降呼びかけに応じることなく自決したり、バンザイクリフやスーサイドクリフから身を投げた(詳細は#集団自決で後述)。なかには、最後の抵抗としてアメリカ軍に向けて小銃を乱射していた民間人女性もいたが、海兵隊員は彼女の足を撃ち抜いて捕虜としている。沖合では巡洋艦や駆逐艦が艦砲射撃による支援を行っていたが、大量の日本兵と民間人の遺体は沖合にあるアメリカ軍艦艇の周辺まで流れ着いており、軽巡洋艦「モントピリア」の水兵ジェームズ・J・フェーイーは海面を日本人の遺体が埋め尽くしているのを見て衝撃を受けた。娯楽の少ない軍艦上において、艦首から艦尾まで日本人の漂流遺体を数えながら駆け抜けるという遊びが水兵の間で流行り、フェーイも参加したが20体を数えたところで止めてしまったという。やがて艦砲射撃の任務が終わると、「モントピリア」は海面に漂う遺体をおかまいなしに轢きながら航行したが、遺体がスクリューにからまるため、ときどき停船して潜水員が遺体を取り除かなければならなかった。 この日を以って、アメリカ統合遠征軍司令ターナーはサイパン占領を宣言した。スプルーアンスはサイパンの占領と南雲の自決の報告を聞き「この作戦で私がもっとも嬉しかった事は、サイパンの敵軍の指揮官南雲中将の最期である。南雲は真珠湾攻撃とミッドウェー海戦の際の日本艦隊の指揮官であった(中略)スリーストライクのアウトというわけだ」と喜んだ。
※この「バンザイ突撃」の解説は、「サイパンの戦い」の解説の一部です。
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