無降伏主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 18:19 UTC 版)
日本軍でも当初は無降伏主義では無く、降伏したり捕虜となった者は日清戦争時には清軍に耳や鼻を削がれるなどの虐待を受ける者もいて、残虐さを問題として「捕虜となるくらいなら死ぬべきだ」という趣旨の訓令とし、日露戦争時に捕虜となった兵士が敵軍に自軍の情報を容易く話したため、これが問題となり、以降「捕虜になっても敵軍の尋問に答える義務はない」ということが徹底された。 陸海軍刑法において「尽くすべき所を尽くさずして降伏」した指揮官には死刑、「尽くすべき所を尽くして降伏」した指揮官には禁錮六ヶ月の罰則を定めていた他、1939年のノモンハン事件では、捕虜となった将兵が身柄送還後に自決を強要されたり、懲罰的な戦死に追い込まれたりする例があった。1941年(昭和16年)に制定した戦陣訓において「生きて虜囚の辱めを受けず」とされ、太平洋戦争中でも個々の兵士や部隊での降伏や投降は極端に少なくなった。これらの理由として、陸海軍刑法で事実上降伏が違法とされた事や、戦陣訓での戦術の記述が降伏をためらわせる一因になった上に、捕虜経験者とその家族に対する社会的差別や、連合軍兵士が投降兵を殺害する事例が珍しくなかったことが挙げられる。また、日本軍将兵が捕虜となった際の尋問応対法などは想定されず、教育もされなかったため、情報漏洩や利敵行為の原因になった。さらに、捕虜となった兵士の家族が社会的差別を受けたため、連合軍が捕虜を尋問する際に「捕虜になったことを日本側に通告する」との恫喝に利用された。 この様な「無降伏主義」は日本軍のみに見られた事では無く、他でも見られた。ドイツ国防軍では、第二次大戦の初期においては捕虜となった将兵やその家族が不利益を被ることは少なかったとされるが、スターリングラード攻防戦において、フリードリヒ・パウルス元帥指揮下の第6軍は、絶望的な状況でも撤退も降伏の許可も与えられず、壊滅の憂き目に遭っている。イギリス軍でもシンガポールの戦いにおいてアーサー・パーシバル将軍指揮下の守備軍はチャーチル首相の死守命令によって降伏を禁ぜられるなど、無降伏主義と無縁ではなかった(ただし、前二者の事例では指揮官が死守命令にそむいて降伏しており、同時代の日本軍では通例であった玉砕にまでは至っていない)。ソビエト連邦(ソ連国防人民委員令第227号)や中華民国(軍刑法である戦時軍律第六條は敵に降参するものは死刑に処すと定めていた)などは日本と同様な無降伏主義をとっており、投降兵が自軍に復帰した場合に処刑したり、投降兵の家族に対しては食糧配給差し止め、国外追放や強制収容所送致などの報復措置が行われていた。
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