無防備都市宣言問題とは? わかりやすく解説

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無防備都市宣言問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 08:20 UTC 版)

マニラの戦い (1945年)」の記事における「無防備都市宣言問題」の解説

1944年昭和19年10月アメリカ軍中心とした連合軍フィリピン奪還着手し日本軍レイテ沖海戦敗北した同年12月までにレイテ島の戦いでも日本軍敗れると、ルソン島への連合軍の上陸時間の問題となった連合軍は、マニラ港補給拠点としての利用という軍事的目的と、首都及び捕虜収容所解放という政治的目的から、マニラ奪還重視していた。 日本陸軍フィリピン守備隊として第14方面軍ルソン島配置していたが、その司令官山下奉文大将は、司令部首都マニラからルソン島北部バギオ移動して山野での長期持久を図る方針で、マニラについては日本軍フィリピン侵攻時のアメリカ軍の対応同様に無防備都市宣言することを検討していた。マニラ放棄市民被害避け目的もあった。短期間全市民避難させることは不可能と判断されていた。この第14方面軍方針従いマニラを含むルソン島南部地区担当振武集団は、マニラ防衛隊司令官小林隆陸軍少将)を野口部隊など3個大隊だけを除いてマニラ市街から東方山地退去させ、イポのダム監視小屋戦闘指令所設けた。 だが、大本営陸軍部マニラ放棄には同意しなかった。現地でも第4航空軍司令官冨永恭次陸軍中将)は強硬なマニラ死守であった海軍マニラ放棄反対し、マニラ駐留の第31特別根拠地隊司令官岩淵三次海軍少将)を基幹レイテ沖海戦マニラ湾空襲での沈没艦乗員最上生存者600名、熊野生存者500名、木曾生存者400名、鈴谷生存者200名、その他に武蔵、曙、初春若葉沖波早霜隠戸など)などを集めた海軍陸戦隊マニラ海軍防衛隊」(マ海防)を編成し市街戦態勢作った海軍市街戦主張した理由は、マニラ港湾施設戦略的価値物資山岳地帯への搬出未了海軍将兵野戦訓練に不安があったことなどであった。ただし、海軍のうちでも、現地南西方面艦隊司令長官大川内伝七中将第14方面軍方針同調しマニラ放棄賛成であった冨永中将マニラ死守強硬に主張した理由一つとして、彼が多く特攻隊員マニラ基地から出発させたという精神的理由があり、冨永マニラ自分墓場としようとしていたと、当時第14方面軍参謀長であった武藤章は後に回想している。 もっとも冨永恭次中将1945年1月6日アメリカ軍ルソン島上陸するその日のうちに第4航空軍マニラ撤退独断命令し実行したため大混乱起きた冨永中将その後山下大将承諾得ず台湾移動した結局マニラ無防備都市化は実現しなかった。

※この「無防備都市宣言問題」の解説は、「マニラの戦い (1945年)」の解説の一部です。
「無防備都市宣言問題」を含む「マニラの戦い (1945年)」の記事については、「マニラの戦い (1945年)」の概要を参照ください。

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