フィリピン侵攻
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「球磨 (軽巡洋艦)」の記事における「フィリピン侵攻」の解説
1941年(昭和16年)4月10日、球磨は第三艦隊第十六戦隊に編入された。 太平洋戦争緒戦では、軽巡洋艦長良を除いた第十六戦隊は重巡洋艦摩耶、特設水上機母艦讃岐丸、駆逐艦2隻と共に比島部隊主隊としてフィリピン進攻作戦に参加した。主隊の任務はフィリピンのビガン攻略を行なう第二急襲隊の支援であった。讃岐丸を除く主隊の球磨、重巡洋艦足柄、摩耶、駆逐艦朝風、松風は12月7日に澎湖諸島馬公から出撃。12月10日、主隊はアメリカ海軍第10哨戒航空団のPBYに発見され、続いて哨戒航空団の飛行艇(500ポンド爆弾4発搭載)5機による攻撃を受けたが命中弾はなかった。この後、主隊は碣石湾を経て12月14日に馬公に帰投した。 12月17日、主隊からは駆逐艦2隻が抜け特設水上機母艦山陽丸が加わった。足柄、摩耶と球磨は12月19日に馬公から出撃してリンガエン湾上陸作戦支援にあたり、12月23日に馬公に帰投した。 1942年(昭和17年)1月3日、日本海軍はフィリピン攻略・警備・海上交通保護のため球磨、敷設艦八重山、砲艦隊1隊、特別根拠地隊2隊と附属隊をもって第三南遣艦隊を編成した。艦隊の当初の任務は、マニラ湾口の封鎖や、フィリピン各地の制圧・占領であった。第三南遣艦隊令長官に親補された杉山六蔵海軍中将は、1月6日に高雄市で球磨に将旗を掲げた。艦隊司令部は1月9日にマニラへ進出、陸上に司令部を置いた。球磨は1月10日に高雄市を出港し、2月27日までフィリピン諸島の哨戒に当たった。 同年3月、球磨は南フィリピンの侵攻の掩護に就き、3月1日にセブ港を砲撃し3月3日にミンダナオ島サンボアンガへの上陸を掩護した。球磨に乗船していた特設鎮守府特別陸戦隊が、抑留されていた80人の日本人を救出した。同時期、日本海軍は第三南遣艦隊を増勢し、2月中旬に水雷艇3隻(13日〈雉・鴻〉、15日〈粟〉)、3月6日に第6駆逐隊(響、暁、雷、電)を編入した。当時、アメリカ軍のコレヒドール要塞は陥落しておらず、日本海軍は日本陸軍の第14軍に協力してフィリピン各地の作戦に従事した。またフィリピン各地の島嶼を占領するため、護衛艦艇として第二水雷戦隊と第四水雷戦隊から駆逐隊が第三南遣艦隊に増強された。 4月初旬、日本陸軍はビサヤ諸島とミンダナオ島の攻略を企図した。4月5日、川口支隊は第2駆逐隊(第四水雷戦隊)の護衛下でリンガエン湾を出撃した。4月9日未明、フィリピンのタノン海峡南側出口で球磨と水雷艇雉はアメリカの魚雷艇PT-34およびPT-41(英語版)と交戦した。PT-34の発射したMk18魚雷(英語版)8発のうち1発がおそらく球磨に命中したが、爆発しなかった。PT-34は水上機母艦讃岐丸から発進した零式水上観測機により撃沈された。 4月10日、球磨は川口支隊(第2駆逐隊護衛)歩兵第35旅団司令部及び歩兵第124連隊のセブ島上陸を支援した。同日、日本海軍は南方方面を統轄する南西方面艦隊を新編した。第三南遣艦隊も南西方面艦隊の麾下に入った。4月12日、河村支隊は第24駆逐隊(海風、山風、江風)に護衛されてリンガエン湾を出撃し、パナイ島へむかった。4月16日、球磨は河村支隊(第24駆逐隊護衛)の歩兵第9旅団司令部及び歩兵第41連隊のパナイ島への上陸を援護した。5月6日、球磨はマニラ湾のコレヒドール島のアメリカ軍要塞への最終的な攻撃を援護した。要塞が陥落してフィリピンの米軍が降伏すると、増援の駆逐隊(第2駆逐隊〈村雨、五月雨、夕立、春雨〉、第24駆逐隊〈海風、山風、江風〉、第15駆逐隊〈親潮、黒潮、早潮〉)は原隊に復帰してミッドウェー作戦に参加した(フィリピンの戦い)。 球磨は8月上旬までマニラの哨戒に当たった。8月7日、マニラを出発、12日に呉に帰港した。呉海軍工廠で整備(8月29日から9月10日まで入渠)を行った後、9月15日呉を出港、9月20日にマニラに到着した。
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