第三南遣艦隊とは? わかりやすく解説

第三南遣艦隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/25 14:07 UTC 版)

津軽 (敷設艦)」の記事における「第三南遣艦隊」の解説

横須賀修理中の1943年昭和18年12月1日附で「津軽」は第三南遣艦隊に編入される12月3日横須賀出発し12月5日佐世保到着輸送物件搭載し12月9日佐世保出撃するマニラ経由13日-19日)で12月22日シンガポール到着1944年昭和19年)に入るとシンガポール方面フィリピン方面での輸送作戦従事3月17日から24日までパラオ滞在したあと、バラバック海峡機雷敷設した5月12日佐世保帰投詳細は「渾作戦」を参照 5月28日機雷600個を搭載して佐世保出港スリガオ海峡機雷敷設したあと、6月4日ダバオ到着6月5日ダバオ出発し6月7日にワシレ(ハルマヘラ島)着。ビアク島の戦いに伴う輸送作戦従事する陸軍部隊乗せて6月8日出発6月9日ソロンニューギニア島西部到着同日出発し13日にワシレ着。即日出発しソロンへ戻る。6月21日ソロン出発同日、サラワジの泊地空襲受けたため避退する途上で米潜水艦ダーターから右舷艦首魚雷攻撃受けた。この被雷で相当な浸水があり津軽前のめりとなり、戦死2人重軽傷4人の被害があった。峯風型駆逐艦12番艦「帆風」の支援を受け、6月22日にマリフッド着。現地にて損傷箇所応急修理施した試験航海の結果思わしくなく、本格的な修理のためフィリピンのキャビテ軍港回航する事となった。6月28日、ワシレに回航6月29日フィリピンへ向け駆潜艇2隻の護衛伴い出港するが、モロタイ水道北口においてダーター襲撃を受ける。津軽航海長面舵一杯を取るも応急修理による低速航行だった事からも避けられ被雷した。沈下止まらず徐々に艦尾持ち上がりやがて垂直に直立し津軽そのまま艦尾を上にして海中没した。その直後爆発があり、津軽から十分に離れていなかった漂流者には水中衝撃負傷した者が多かったという。 駆潜艇2隻が津軽救助あたった重傷者が多く救助された後にも戦傷原因亡くなる者が続出した生存者少なく准士官以上18人、下士官兵287人、傭人3人が戦死した。 既に死亡していた中津大佐7月10日附で津軽艦長職務解かれた。8月10日、「津軽」は敷設艦帝国軍艦籍より除かれた。

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第三南遣艦隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 03:44 UTC 版)

南遣艦隊」の記事における「第三南遣艦隊」の解説

1942年昭和17年1月3日フィリピン攻略警備海上交通保護のため、軽巡洋艦球磨」、敷設艦八重山」、砲艦隊1隊、特別根拠地隊2隊と附属をもって発足した比島作戦協力していた第三艦隊大部分は、一部兵力残してさらに南方インドネシア攻略向かった新編時の第三南遣艦隊は連合艦隊属し南方部隊指揮官近藤信竹中将第二艦隊司令長官)の指揮下におかれた。第三南遣艦隊令長官親補された杉山六蔵海軍中将は、1月6日高雄市軽巡球磨将旗掲げた続いて1月9日マニラ進出陸上司令部置いた当初任務は、マニラ湾口の封鎖や、フィリピン各地制圧占領であった2月には第一砲艦隊・第51・53駆潜隊・第3132航空隊増勢2月中旬水雷艇3隻(13日〈雉・〉、15日〈粟〉)、3月6日に第6駆逐隊(響・暁・雷・電)が編入された。 同年4月10日南西方面艦隊発足すると、第三南遣艦隊も麾下入った当時アメリカ軍のコレヒドール要塞陥落しておらず、日本陸軍第14軍協力してマニラ方面作戦従事した。またフィリピン各地島嶼占領するため、護衛艦艇として第二水雷戦隊第四水雷戦隊から駆逐隊増強された。5月上旬要塞陥落しフィリピン米軍降伏すると、増援駆逐隊(第2駆逐隊村雨五月雨夕立春雨〉、第24駆逐隊海風山風江風〉、第15駆逐隊親潮黒潮早潮〉)は原隊復帰してミッドウェー作戦参加したフィリピンの戦い)。 陸海軍協定により、海軍中部・南部フィリピン防衛担当となったため、ルソン島陸軍任せて規模縮小している。しかし1944年昭和19年)夏より、フィリピン奪還備えて再びルソン島増強図っている。5月21日南方軍総司令部シンガポールからマニラ移転した南西方面艦隊司令部7月中旬軽巡洋艦大井駆逐艦敷波利用してジャワ島スラバヤからフィリピンマニラ移った8月15日より三川軍一南西方面艦隊司令長官が第三南遣艦隊司令長官兼任した9月10日ダバオ誤報事件起きる。捷一号作戦実施中同年11月1日、第三南遣艦隊(南西方面艦隊第十三航空艦隊司令長官三川中将から大川内伝七中将交代した。第三南遣艦隊参謀長島本少将から第31特別根拠地隊司令官有馬馨少将交代し有馬四職南西方面艦隊参謀長、第三南遣艦隊参謀長第十三航空艦隊参謀長、第31特別根拠地隊司令官)を兼任した11月17日、第31特別根拠地隊司令官岩淵三次少将任命された。 フィリピン攻防戦にともなうルソン島地上戦昭和20年1月初旬以降)が始まると、マニラ市街戦により第31特別根拠地隊壊滅マニラ大虐殺)、岩淵少将戦死した山中撤退した第三南遣艦隊(南西方面艦隊司令部孤立化した。大本営は、連携不能となった第一第二南遣艦隊統率するために、1945年昭和20年2月5日附で第十方面艦隊新設せねばならなくなった詳細既述)。

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