第三南遣艦隊
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横須賀で修理中の1943年(昭和18年)12月1日附で「津軽」は第三南遣艦隊に編入される。12月3日に横須賀を出発し、12月5日に佐世保到着。輸送物件を搭載し、12月9日に佐世保を出撃する。マニラ経由(13日-19日)で12月22日にシンガポールに到着。1944年(昭和19年)に入るとシンガポール方面やフィリピン方面での輸送作戦に従事。3月17日から24日までパラオに滞在したあと、バラバック海峡に機雷を敷設した。5月12日、佐世保に帰投。 詳細は「渾作戦」を参照 5月28日、機雷600個を搭載して佐世保を出港、スリガオ海峡で機雷を敷設したあと、6月4日にダバオ到着。6月5日にダバオを出発し、6月7日にワシレ(ハルマヘラ島)着。ビアク島の戦いに伴う輸送作戦に従事する。陸軍部隊を乗せて6月8日に出発、6月9日にソロン(ニューギニア島西部)到着。同日出発し、13日にワシレ着。即日出発し、ソロンへ戻る。6月21日、ソロンを出発。同日、サラワジの泊地で空襲を受けたため避退する途上で米潜水艦ダーターから右舷艦首に魚雷攻撃を受けた。この被雷で相当な浸水があり津軽は前のめりとなり、戦死2人重軽傷4人の被害があった。峯風型駆逐艦12番艦「帆風」の支援を受け、6月22日にマリフッド着。現地にて損傷箇所の応急修理を施したが試験航海の結果が思わしくなく、本格的な修理のためフィリピンのキャビテ軍港に回航する事となった。6月28日、ワシレに回航。6月29日、フィリピンへ向け駆潜艇2隻の護衛を伴い出港するが、モロタイ水道北口においてダーターの襲撃を受ける。津軽航海長が面舵一杯を取るも応急修理による低速航行だった事からも避けられず被雷した。沈下は止まらず、徐々に艦尾が持ち上がりやがて垂直に直立し、津軽はそのまま艦尾を上にして海中に没した。その直後に爆発があり、津軽から十分に離れていなかった漂流者には水中衝撃で負傷した者が多かったという。 駆潜艇2隻が津軽の救助にあたったが重傷者が多く、救助された後にも戦傷が原因で亡くなる者が続出した。生存者は少なく准士官以上18人、下士官兵287人、傭人3人が戦死した。 既に死亡していた中津大佐は7月10日附で津軽艦長の職務を解かれた。8月10日、「津軽」は敷設艦、帝国軍艦籍より除かれた。
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第三南遣艦隊
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1942年(昭和17年)1月3日、フィリピン攻略・警備・海上交通保護のため、軽巡洋艦「球磨」、敷設艦「八重山」、砲艦隊1隊、特別根拠地隊2隊と附属隊をもって発足した。比島作戦に協力していた第三艦隊の大部分は、一部兵力を残してさらに南方のインドネシア攻略に向かった。 新編時の第三南遣艦隊は連合艦隊に属し、南方部隊指揮官近藤信竹中将(第二艦隊司令長官)の指揮下におかれた。第三南遣艦隊令長官に親補された杉山六蔵海軍中将は、1月6日に高雄市で軽巡球磨に将旗を掲げた。続いて1月9日にマニラへ進出、陸上に司令部を置いた。当初の任務は、マニラ湾口の封鎖や、フィリピン各地の制圧・占領であった。2月には第一砲艦隊・第51・53駆潜隊・第31・32航空隊を増勢、2月中旬に水雷艇3隻(13日〈雉・鴻〉、15日〈粟〉)、3月6日に第6駆逐隊(響・暁・雷・電)が編入された。 同年4月10日に南西方面艦隊が発足すると、第三南遣艦隊も麾下に入った。当時、アメリカ軍のコレヒドール要塞は陥落しておらず、日本陸軍の第14軍に協力してマニラ方面の作戦に従事した。またフィリピン各地の島嶼を占領するため、護衛艦艇として第二水雷戦隊と第四水雷戦隊から駆逐隊が増強された。5月上旬に要塞が陥落しフィリピンの米軍が降伏すると、増援の駆逐隊(第2駆逐隊〈村雨、五月雨、夕立、春雨〉、第24駆逐隊〈海風、山風、江風〉、第15駆逐隊〈親潮、黒潮、早潮〉)は原隊に復帰してミッドウェー作戦に参加した(フィリピンの戦い)。 陸海軍の協定により、海軍は中部・南部フィリピンの防衛担当となったため、ルソン島は陸軍に任せて規模を縮小している。しかし1944年(昭和19年)夏より、フィリピン奪還に備えて再びルソン島の増強を図っている。5月21日、南方軍総司令部はシンガポールからマニラに移転した。南西方面艦隊司令部も7月中旬に軽巡洋艦大井と駆逐艦敷波を利用してジャワ島スラバヤからフィリピンのマニラに移った。8月15日より三川軍一南西方面艦隊司令長官が第三南遣艦隊司令長官を兼任した。 9月10日、ダバオ誤報事件が起きる。捷一号作戦実施中の同年11月1日、第三南遣艦隊(南西方面艦隊、第十三航空艦隊)司令長官は三川中将から大川内伝七中将に交代した。第三南遣艦隊参謀長も島本少将から第31特別根拠地隊司令官有馬馨少将に交代し、有馬は四職(南西方面艦隊参謀長、第三南遣艦隊参謀長、第十三航空艦隊参謀長、第31特別根拠地隊司令官)を兼任した。11月17日、第31特別根拠地隊司令官に岩淵三次少将が任命された。 フィリピン攻防戦にともなうルソン島地上戦(昭和20年1月初旬以降)が始まると、マニラ市街戦により第31特別根拠地隊は壊滅(マニラ大虐殺)、岩淵少将も戦死した。山中に撤退した第三南遣艦隊(南西方面艦隊)司令部は孤立化した。大本営は、連携不能となった第一・第二南遣艦隊を統率するために、1945年(昭和20年)2月5日附で第十方面艦隊を新設せねばならなくなった(詳細既述)。
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