第百七号哨戒艇として
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「ジェネシー (艦隊曳船)」の記事における「第百七号哨戒艇として」の解説
自沈したジェネシーは、日本海軍の手で引き揚げられた。復旧工事の後、1944年4月20日に第百七号哨戒艇と命名、哨戒艇に類別、本籍を佐世保鎮守府に定められる。第三南遣艦隊附属に編入。しかし、何分沈没していた上に老朽艦だった故、艇籍編入後も各種工事や改修、乗組員の教育が行われた。10月に一応の工事が終わり、10月13日に臨戦準備の傍らで公試運転を施行したが舵の動作が不良のため2日間で終わり、再び工事が行われた。工事終了後、10月28日に引き渡し式が行われ、正式に就役した。10月29日、軍隊区分北菲部隊第一掃蕩隊に配置。その後は多号作戦支援のためマニラ湾に出動して対潜哨戒を行った。 11月5日朝、第百七号哨戒艇は引き続き多号作戦支援任務中、ルバング島沖で第38・3任務群のF6Fヘルキャット16機の攻撃を受け、爆雷庫や烹炊所などに被弾し炎上、航行不能となった。その後、第53号駆潜艇の応援を得て消火し、夜を徹して応急修理に務めた後、人力操舵によってマニラに向かったが、翌6日朝、SB2Cヘルダイバー6機の攻撃を受け、艦橋と機関室に被弾して全艇が炎上し、北緯14度23分 東経120度25分 / 北緯14.383度 東経120.417度 / 14.383; 120.417の地点で沈没した。 第百七号哨戒艇長 山田常三 大尉:1944年6月15日 - 1944年11月6日 戦死、同日付任海軍少佐
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