第百三十銀行の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 05:44 UTC 版)
こうして洋反物商として一定の地位を築いた重太郎は1878年、東区高麗橋に資本金25万円で第百三十銀行を設立した。旧徳島藩士の小室信夫と組んで、宮津や福知山の旧藩士を説き、金禄公債を資本金として出資させるのに成功した。初代頭取には、小室の父佐喜蔵が、取締役には渋谷庄三郎(大阪の綿花商)、稲田佐七郎(大阪の洋反物商)、松本誠直(宮津の株主)が就任し、重太郎は取締役兼支配人となった。1880年には重太郎が頭取に就任した。こうして1896年には、預金額は252万円、貸出額は278万円に達し、預金額248万円、貸出額311万円の住友銀行と肩をならべ、在阪銀行のトップの座を占めた。1898年、国立銀行の満期解散にともない、同行は普通銀行に転換し、百三十銀行となる。同行は百三十六銀行、大阪興業銀行、小西銀行、西陣銀行、福知山銀行、八十七銀行を合併し、1902年末には資本金325万円、大阪・京都・滋賀・福井・福岡に15店舗をもつ大銀行となった。1898年10月には重太郎は大阪銀行集会所委員長となり、押しも押されもせぬ大阪を代表する銀行家となった。しかしこの頃から百三十銀行の経営はおかしくなる。それは重太郎が手を拡げた他の事業の動向に深く関係するものであった。百三十銀行はその後安田財閥傘下に入り松本の死後に安田銀行に吸収合併される。
※この「第百三十銀行の設立」の解説は、「松本重太郎」の解説の一部です。
「第百三十銀行の設立」を含む「松本重太郎」の記事については、「松本重太郎」の概要を参照ください。
- 第百三十銀行の設立のページへのリンク