航海の結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/28 23:05 UTC 版)
「ルイス・バーエス・デ・トーレス」の記事における「航海の結果」の解説
マニラに着いた彼らは全く人々から関心を得られなかったが、トレスはスペインに戻って詳細な報告書を国王に提出しようと計画した。 1607年6月1日、南米からマニラへ、2隻の船が到着した。その片方はキロスの旗艦「サン・ペドロとサン・パブロ」号であった。改称されていたが、乗務員の一部は残存していた。キロスがまだ生きていることを知ったトレスはすぐに報告書をキロスに送った。この文書は現存していないが、キロスはそれを自分の数多い記録の一部として国王に見せ、次の航海に出るべく王の心を揺さぶる材料にした。 それ以降、トーレス、その部下たち、捕虜たちは完全に歴史上から姿を消した。彼らのその後は不明である。プラドは(ことによるとニューギニア人の捕虜を1人連れて)スペインに帰った。トレスの記録の大半は出版されなかったが、海図やプラドの長々しい報告書とともにスペインの公文書館に収められた。 1762年から65年のある時、イギリス海軍の水路学者アレグザンダー・ダリンプル(Alexander Dalrymple)はトレスの報告書を目にしたという。この情報がジョゼフ・バンクスを通じてジェイムズ・クックに伝えられたことは確実である。
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