航海の経過とは? わかりやすく解説

航海の経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/04 13:55 UTC 版)

ヒ81船団」の記事における「航海の経過」の解説

ヒ81船団は、伊万里湾集結して編成整えた加入船は、海軍特設給油船を含む大型高速タンカー5隻と、フィリピン行き途中まで同行陸軍特殊船4隻、元特設水上機母艦である海軍特設運送艦聖川丸の計10隻で、この時点では最高級の優秀船ばかりだった。護衛部隊は、空母神鷹のほか松型駆逐艦海防艦5隻(対馬択捉大東昭南久米)で構成されていた。これが5回目(3往復目)の護衛任務となる神鷹艦長石井江海少将)は、対潜警戒用に九七式艦上攻撃機14機を搭載していた。船団指揮は、第8護衛船団司令部司令官佐藤勉海軍少将)が担当する佐藤少将聖川丸将旗掲げた11月14日朝、ヒ81船団伊万里湾出港した当初の計画では対馬海峡横断して済州島回り込み経由地である澎湖諸島馬公向けて航行する予定であった。しかし、敵潜水艦無線電話思われる交信電波多数傍受されたため、対馬海峡途中から引き返し14日夜は五島列島北端避難して碇泊した。翌11月15日船団は3列縦隊組んだ厳戒態勢航行再開し、「神鷹」の搭載機昼間常時2機ずつ船団上空警戒飛行した厳重な警戒にも関わらず同日正午前、済州島東方110km付近に差し掛かったところで、陸軍特殊船あきつ丸日本海運:9186総トン部隊2000名、馬450匹)が、アメリカ潜水艦クイーンフィッシュ魚雷攻撃受けてしまった。あきつ丸は、自衛用の爆雷輸送中の弾薬誘爆起こし、わずか数分転覆沈没した駒宮七郎によれば第23師団歩兵第64連隊関係者中井春一聯隊長含む)など乗船者2576人のうち2000名以上が死亡したあきつ丸生存者収容したヒ81船団は、朝鮮半島南岸へと北寄りに針路変え爆雷威嚇投下しつつ退避した夜を徹して航行した船団は、16日未明巨文島にたどり着き様子うかがってから済州島移動と、島嶼利用しながら前進した11月17日朝、ヒ81船団次の仮泊地である舟山列島の泗礁山泊地en)に向けて出航した日中一見何事もなく経過したが、実際には、アメリカ潜水艦中国大陸から飛来しアメリカ海軍哨戒機によって、船団は再び発見されていた。輸送船煙突から出た黒煙機関不完全燃焼による)が、発見原因になったとも言われるアメリカ潜水艦群は、対潜哨戒機着艦余儀なくされる日没待って襲撃行動開始した同日午後6時30分頃陸軍特殊船摩耶山丸三井船舶:9433総トン)が被雷して轟沈した(沈没まで10分)。これは、アメリカ潜水艦ピクーダの攻撃であった駒宮七郎によれば乗船中の第23師団司令部歩兵第72連隊その他約4500人中3187人が戦死した大内健二によると戦死者数は3437人で、太平洋戦争中日本輸送船犠牲者数としては富山丸に次ぐ第4位の惨事であった護衛海防艦昭南爆雷応戦し、敵潜水艦撃沈確実と報告したが、実際にはピクーダに損害はなかった。 摩耶山丸沈没から5時間後の17日午後11時頃、今度神鷹アメリカ潜水艦スペードフィッシュ雷撃された。神鷹には魚雷4本が命中する航空用ガソリンタンクが破損して炎上し神鷹爆発繰り返しながら30分後に沈没したガソリン海面燃え広がったため生存者少なく乗員1160人中1100人が戦死した生存者60名)。日本側の護衛艦必死に対潜攻撃行い18日午前3時13分には海防艦対馬が敵潜水艦撃沈確実を報じたが、該当するアメリカ潜水艦喪失記録は無い。なお、スペードフィッシュ陸軍特殊船神州丸損傷させたとも主張している。 生き残った輸送船は、潜水艦行動難し水深の浅い沿岸部をたどり、18日夕刻になんとか泗礁山泊地逃げ込んだ救助対潜攻撃終えた護衛艦追いつくのを待ち21日朝にヒ81船団澎湖諸島馬公向けて再出発した潜水艦警戒して水深の浅い海域選んで航行続けた11月25日正午澎湖諸島東方で、陸軍特殊船2隻(神州丸吉備津丸)と海軍特設運送艦聖川丸海防艦2隻(大東対馬)が分離した分離した陸軍船団26日無事に高雄到着したその後陸軍特殊船2隻(神州丸吉備津丸)は高雄マニラ行きタマ33船団編成し海防艦4隻と掃海艇1隻を追加した護衛部隊7隻を伴って30日出航する空襲回避のため目的地マニラからサンフェルナンド変更12月2日同地到着したタンカー5隻・護衛艦4隻となったヒ81船団は、11月25日経由地馬公入港した故障したタンカーみりい丸同地分離し護衛にミ27船団後述)の生き残りなど海防艦2隻を加えて27日出港南シナ海通って12月4日シンガポール到着した

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航海の経過

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GP55船団」の記事における「航海の経過」の解説

1943年6月15日午前8時45分GP55船団は、在来型の貨物船10隻とアメリカ軍戦車揚陸艦LST)3隻、護衛としてオーストラリア海軍所属バサーストコルベットen)が以下の5隻「ウォーナンブール」(en)・「デロレイン」(en)・「カルガリー」(en)・「クータマンドラ」(en)・「バンダバーグ」(en)という編制ブリスベン目指しシドニー出航した貨物船のうち「ポートマー」(5551トン)はアメリカ陸軍徴用船で、弾薬およびガソリン積んでいた。護衛部隊の最先士官は「ウォーナンブール艦長R・Nリード中佐であった。 このとき、シドニー沖では日本潜水艦伊174」が待ち伏せであった。同艦は6月1日から数回襲撃行った後で攻撃使いやすい艦首発射管には魚雷が2発し残っていない状態だった。同艦艦長南部伸清少佐6月14日夜に航空機を2回と駆逐艦1回発見したことから、護送船団運航または対潜掃討予感していた。 6月15日午後5時15分、まもなく日没の頃、船団は、スモーキー岬(en東方35地点差し掛かった船団は5列縦隊中央3列が各3隻・両端列が各2隻)を組んだ編隊航行をするはずであったが、左から4列目の2番船だった「ポートマー」が後落してしまっており、同列3番船のLST-1級戦車揚陸艦「LST-469」(1625トン)を追い越して規定位置戻ろうとしている状況であった。「伊174」は水中聴音器船団探知すると、距離8000mで潜望鏡により状況確認後、潜水したまま3000mまで接近して艦首から魚雷2発を発射した船団側は5隻の護衛艦取り囲むほか、アンソン哨戒機1機が18海里先行して前路哨戒にあたっていたが、魚雷が迫るまで襲撃気づいていなかった。魚雷は、「ポートマー」が「LST-469」をちょうど右舷から追い越そう重なった瞬間届き船団側が回避するまもなく両船に1発ずつ命中した。「ポートマー」は1番船倉の水線部に被弾して積荷弾薬ガソリン爆発炎上する10分間沈没し乗船者2人死亡71人がコルベット「デロレイン」に救助された。「LST-469」は航行不能に陥り、乗船者26人が死亡または行方不明17人が負傷した奇襲された船団退避し、「デロレイン」を救助任務充て、「ウォーナンブール」と「カルガリー」が現場に留まってソナー捜索23分後に反応捉える目標探知できなくなるまで計4回の爆雷攻撃加えた。「伊174」は潜望鏡戦果確認後に反転設計上の安全深度75mを超える97mまで潜航退避したオーストラリア側は漂う揮発臭から敵潜水艦撃破した可能性が高いと考えていたが、実際には「伊174」は前部発射管室をはじめ鋲の緩み電路関係などに軽微な損害を受けるにとどまったその後、「ウォーナンブール」は船団復帰し、「デロレイン」は救助した「ポートマー」生存者と「LST-469」の負傷者コフスハーバー送り、「カルガリー」は「LST-469」に付き添った。「LST-469」は沈没免れ、翌6月16日夕刻ブリスベンから迎え出たタグボートリザーブ」(en)に曳航されて、6月20日シドニー入港したオーストラリア軍は、損傷した思われる日本潜水艦にとどめを刺すため特別の対潜作戦実施した負傷者等を上陸させた「デロレイン」は遭難現場戻って、「カルガリー」及び応援駆けつけオーストラリア駆逐艦ヴェンデッタとともに6月18日及び6月19日通じて潜水艦捜索従事した6月18日ボーフォート雷撃機コフスハーバー沖で敵潜水艦対する銃爆撃記録しているほか、コルベットジーロング」もモートン岬北東40海里潜水艦しきもの探知して攻撃しているが、これらの地点実際に日本潜水艦作戦行動中だった証拠確認できていない。なお、「伊174」は艦首魚雷使い果たしたため哨戒打ち切り7月1日トラック泊地帰還した

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航海の経過

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第4611船団」の記事における「航海の経過」の解説

11日第4611船団サイパン島タナパグ沖を出港した船団速力は8ノット遅かった横須賀向けて出航済みだった第4号海防艦は、反転して船団護衛協力するよう命じられた。 12日朝9時前、サイパン北西洋上第4号海防艦船団合流した午前9時35分、船団北緯1732分・東経14400分付近に差し掛かったところ、アメリカ空母機30-40機が飛来攻撃開始した。これは4つ分かれた第58任務部隊のうちの第4群、第58.4任務群(司令官ウィリアム・K・ハリル少将)に属す空母エセックス」「ラングレー」「カウペンス」の搭載機で、偶然に船団発見したのだった南雲忠一中部太平洋方面艦隊司令長官船団攻撃受けたことを知ったが、救援派遣できる航空戦力残っていなかった。南雲中将硫黄島基地など通報して支援求めた午前中攻撃続き午後3時頃に約30襲来午後4時前に20襲来波状攻撃船団襲ったスコール到来空襲止んだが、第二波攻撃旗艦」は爆沈し、輸送船は「龍田川丸」「濱江丸」「稲荷丸」「門司丸」の4隻を残して翌日には沈んだ特設捕獲網艇國光丸」も撃沈され、その他の護衛艦艇もほとんど損傷した12日夜に船団艦船は、損傷激しく救助ままならない漂流態となり、しだいに分裂した第4号海防艦から船団壊滅報告受けた横須賀鎮守府は、父島根拠地隊救援要請して、13日朝、父島碇泊中の第3606船団から第16号駆潜艇第18号駆潜艇差し向けたが、夕刻には救援任務中止となった船団生き残り第20号潜特務艇は「龍田川丸」を護衛して父島向かおうとしたが、2隻とも損傷激しく行動困難なうちにはぐれ、第20号潜特務艇だけが15日母島到着した輸送船のうち「門司丸」は、「ばたびあ丸」の生存者救助後12日午前1130分に脱出断念して単独サイパンへと引き返した。「門司丸」は、14日午前2時頃にサイパン沖まで戻ってきたが、ちょうどアメリカ艦隊による対地艦砲射撃最中であった。「門司丸」も砲撃目標とされたため、午前3時30分には総員退去となり、午前5時30分沈没した一方第58任務部隊は、日本軍の反撃戦力撃破するため小笠原諸島一帯空襲することにし、第58.1任務群(司令官ジョゼフ・J・クラーク少将)と第58.4任務群を北方分遣した。15日、2群合わせて7隻の空母搭載機により、小笠原諸島への空襲が行われた。「龍田川丸」は、小笠原諸島東方洋上軽空母バターン」の対潜哨戒機発見されてさらに損傷フレッチャー級駆逐艦「チャレット」と「ボイド」(en)によってとどめを刺され北緯25度2分・東経14437分付近に沈んだ18日貨物船稲荷丸」が名古屋港へとたどり着いた貨物船濱江丸」も、21日激しく損傷した状態で硫黄島へ到着その後特設駆潜艇文丸」と航空機援護受けて父島へと移動した護衛部隊は、第4号海防艦18日横須賀へ単艦で帰投したほか、それぞれ日本拠点帰投した。

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第3530船団」の記事における「航海の経過」の解説

5月29日本船団は横浜沖を出航した戦史叢書の『マリアナ沖海戦』は「杉山丸」(山下汽船:4379総トン)と「神鹿丸」(栗林商船:2851総トン)を本船加入船に挙げ駒宮七郎によれば、うち「杉山丸」が出航間もなく被雷・損傷して引き返した。しかし、駒宮6月6日東京湾出航第3606船団加入船にも「杉山丸」「神鹿丸」を挙げており、また、アメリカ海軍式年によれば杉山丸」の損傷6月7日である。 6月4日船団は第17.12任務群のアメリカ潜水艦発見され3日間にもわたる追跡攻撃受けた。同任務群のうち「パイロットフィッシュ」はうまく射点着けなかったが、「シャーク」と「ピンタド」の2隻が攻撃機会をつかみ、船団輸送船次々と沈めた。まず4日午後3時30分に、貨物船勝川丸」(川崎汽船:6886総トン)が「シャーク」の雷撃沈没し乗船陸軍将兵2884人の半数が海没。翌5日午後4時30分、船団付近に潜水艦探知して間もなく歩兵第118連隊などの兵員3272人を乗せた貨物船高岡丸」(日本郵船:7006総トン)が「シャーク」の発射した魚雷3発を受け、11分後に沈没。「シャーク」は、海軍徴用貨物船「たまひめ丸」(浜根汽船:3080総トン)も続けて撃沈した6日には海軍徴用貨物船鹿島山丸」(三井船舶:2825総トン)と陸軍将兵2816人乗船貨物船「はあぶる丸」(大阪商船:5652総トン)が「ピンタド」により撃沈された。 船団生き残り艦船は、6月9日サイパン島到着した

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カナ304船団」の記事における「航海の経過」の解説

3月13日鹿児島湾編成整えたカナ304船団は、午後10時出航した情勢極度に不良判断したため奄美大島古仁屋一時待機したが、16日午後10時前進再開した。しかし、18日昼に硫黄鳥島南西55km付近敵機1機に発見された。警戒強化してなおも前進していたところ、同日午後5時頃に貨物船第三筑紫丸三井船舶1012総トン)が雷撃された。左舷中央被雷した第三筑紫丸船体切断され急速に沈没した。これは、アメリカ潜水艦トリガー雷撃アメリカ側記録によると沈没地点北緯2805東経12644分 / 北緯28.083度 東経126.733度 / 28.083; 126.733である。 第三筑紫丸撃沈と同じ3月18日アメリカ第58任務部隊九州瀬戸内海日本軍拠点対す空襲開始していた。日本側はこれ以上航行継続は危険と判断しカナ304船団ジョウ泗列島泗礁山泊地への退避決心船団は、3月20日午後1時に泗礁山へ到着した3月18日から21日にかけ、日本基地航空部隊第58任務部隊の間で九州沖航空戦展開された。日本側は、この戦闘によりアメリカ空母5隻などを撃沈した過大に戦果判定した22日には戦闘止み日本側は第58任務部隊再編のためウルシー環礁撤退中と誤認した戦況好転したとの判断に基づきカナ304船団は、3月22日午後5時に泗礁山泊地から那覇向けて再出航した。ところが実際に第58任務部隊日本近海とどまっており、23日南西諸島対す空襲開始した那覇向かっていたカナ101船団輸送船1隻・護衛艦3隻)などの日本艦船被害続出した情勢が再び悪化したのを受け、カナ304船団針路を北20方向変えて退避移った3月24日午前8時30分退避中のカナ304船団アメリカ陸軍航空軍のB-24爆撃機または海軍型のPB4Y哨戒爆撃機により発見された。2機のB-24の爆撃で、特設掃海艇関丸が午前1145分トカラ列島北緯2912東経12513分 / 北緯29.200度 東経125.217度 / 29.200; 125.217で沈没貨物船荘河丸(大連汽船:2813総トン)も至近弾で機関故障して航行不能陥った。さらに、第58任務部隊第1群である第58.1任務群(司令官ジョゼフ・J・クラーク少将)に属す正規空母ベニントンホーネット軽空母ベロー・ウッドサン・ジャシント搭載機波状攻撃加えた午後3時50分頃の約40機による空襲荘河丸がとどめを刺され北緯2913東経12447分 / 北緯29.217度 東経124.783度 / 29.217; 124.783付近沈没午後5時頃には約120機が船団攻撃する態となり、午後5時20分頃に開城丸(大阪商船2025総トン)が沈没杭州丸(大阪商船:2812総トン)やその他護衛艦艇もアメリカ側記録北緯2913東経12447分 / 北緯29.217度 東経124.783度 / 29.217; 124.783付近ことごとく撃沈された。

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航海の経過

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マタ30船団」の記事における「航海の経過」の解説

10月20日23時40分頃、編成終えたマタ30船団マニラ出港した加入輸送船12隻で、ミ18船団ミマ11船団ボルネオ島ミリから来た資源満載の船や、部隊輸送帰り空船海軍運送船などが入り混じっていた。うち貨客船黒龍丸大阪商船、6379総トン)は遭難船員など民間人多数乗せ2A型戦時標準貨物船阿里山丸三井船舶、6,886総トン)は捕虜1781人を乗せたいわゆるヘルシップ(ほかに遭難船204人など乗船であった。5隻の護衛部隊も寄せ集めで、駆逐艦春風呉竹海上護衛総隊第一海上護衛隊所属だったが、駆逐艦竹は連合艦隊第三十一戦隊所属第20号駆潜艇は第31特別根拠地隊所属バラバラだった。なお、護衛艦数えられている鞍埼左下画像)の実態貨物船改装給糧艦で、逆に輸送船数えられている映海丸陸軍省112排水トン)は陸軍船舶兵運用砲艇である。 船団輸送船を3列縦隊にし、周囲春風先頭として護衛艦配置した隊形組み、8ノット低速航行した。しかし、23日朝から吹き出した強風影響もあって、阿里山丸など隊列から落伍する船が出た23日正午ごろ、船団最優秀船で元特設水上機母艦である特設運送船君川丸川崎汽船、6,863総トン)が潜望鏡しきもの発見して他の加入船に警戒呼びかけた。 ウルフパック戦術を採っていたアメリカ海軍は、ソーフィッシュ(USS Sawfish, SS-276)の艦長のアラン・バニスター中佐率いる第17.15任務群やシャーク(USS Shark, SS-314)の艦長エドワード・ブレイクリー中佐指揮するグループなど、7隻の潜水艦ルソン海峡西方配置していた。15時38分、ソーフィッシュが船団発見し、他の6隻の潜水艦通報。7隻のうち、ソーフィッシュを含む6隻の潜水艦群は船団発見し無線電話連絡取り合う連携して攻撃開始した23日17時28分頃、北緯1858東経11831分 / 北緯18.967度 東経118.517度 / 18.967; 118.517のルソン島ボヘアドール岬西北西沖で、ソーフィッシュは魚雷4本を発射。うち1本ないし4本が、ヒマの実を積んで船団最後尾航行中君川丸左舷後部命中して沈没した24日1時、ボヘアドール岬北西沖で黒龍丸右舷2番船倉機関室魚雷2本が命中し黒龍丸は1時半スクリューゆっくりと回しながら横転し船首から沈没した3時15分スヌーク(USS Snook, SS-279)は「7,500トンタンカー」こと、ミ18船団から編入されタンカー陸軍油槽船菊水丸拿捕船/三井船舶委託、3,887総トン/旧Iris)と「7,500トン輸送船に対して魚雷3本ずつ計6本発射菊水丸船首および缶室に魚雷3本命中(1本は不発)し炎上した沈没した6時5分、北緯1958東経11833分 / 北緯19.967度 東経118.550度 / 19.967; 118.550のルソン島マイライラ岬北西沖でアイスフィッシュ(USS Icefish, SS-367)が雷撃行いミマ11船団から編入され第一次大戦の英E型戦時標準貨物船天晨丸(瑞光商船、4,236総トン)の左舷2番船倉魚雷2本が命中爆発により天晨丸は船橋直前部で船体分断され、2分で沈没7時58分、ドラム(USS Drum, SS-228)はルソン島ボヘアドール岬北西33km地点付近魚雷4本を発射ミマ11船団から編入され貨物船信貴山丸(三井船舶、4,725総トン)の3番船倉機関室4番船倉に1本ずつ命中し、1分30秒沈没した10時55分、シードラゴン(USS Seadragon, SS-194)はこの時点船団の1番船となっていた海軍徴用船1B型戦時標準貨物船大天丸(大阪商船、4,642総トン)へ向け魚雷を4本発射大天丸は部隊輸送帰り空船であったため船体浮かび上がって5ノットしか出せなかったが、最初魚雷2本は何とか回避。しかし、1本が右舷機関室後部命中大天丸は12時ごろに船尾を下にして沈没した12時25分、北緯1932東経11837分 / 北緯19.533度 東経118.617度 / 19.533; 118.617のルソン島ボヘアドール岬西北西260km地点付近で、ミマ11船団から編入され陸軍輸送船第一眞盛丸(原商事、5,864総トン)が雷撃受けて沈没し遭難者の約半数海軍徴用船貨客船營口丸(日本郵船、1,847総トン)に救助された。營口丸は停船して第一眞盛丸の遭難者救助しており、そのデッキ救助した遭難者混雑していた。護衛艦營口丸の周囲警戒していたが、その隙をついてシードラゴン14時4分に魚雷発射魚雷營口丸の左舷船首命中し營口丸はすぐに船体前半部を海中沈め23時50分に沈没營口丸に救助され第一眞盛丸の遭難者相当数戦死した17時半、ルソン島ボヘアドール岬北西沖で、阿里山丸右舷3番船倉に2本、船尾に1本が命中船体船尾被雷部分分断されて、1940分に沈没した戦後シードラゴン雷撃黒龍丸撃沈されたと認定されているが、シードラゴンその時間にはなんら戦闘行為行っていない。ほぼ同じ時刻に「7,500トン輸送船」に魚雷を2本命中させたスヌークこそが、黒龍丸撃沈した真の潜水艦可能性もある。また、スヌーク第一眞盛丸、阿里山丸撃沈した認定されているが、スヌークは5時ごろの四度目の攻撃以降アクション起こしておらず、他に攻撃行った5隻も両船の被雷時刻戦闘行動行っておらず、どちらもシャーク雷撃による戦果思われる日本護衛部隊も必死に応戦し爆雷投下した23日夜に大型飛行艇が、24日には駆逐艦護衛強化及び敵潜水艦制圧のために現場派遣された。乱戦状態の中、春風24日に2回に渡って爆雷17発ずつを投下し17時44分に不確実ながら敵潜水艦撃沈記録しているところ、アメリカ潜水艦シャーク僚艦交信し船団攻撃移った後に行方不明となっていることから、おそらく春風によって撃沈されたものと考えられている。 輸送船のほとんどを撃沈されたマタ30船団は、小型船3隻だけとなって10月26日高雄へと到着した

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航海の経過

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カタ604船団」の記事における「航海の経過」の解説

2月26日鹿児島港部隊物資積んだ輸送船4隻は、船団組み出港した護衛は、第四海上護衛隊水雷艇友鶴以下4隻で、駒宮1987年によれば出港時は8隻だったが故障で4隻が離脱した出港からまもなく敵機部隊出現可能性高まったため、船団鹿児島湾内で一時待機し27日深夜再出発した島伝い夜間航行活用して空襲避けて進む計画で、3月1日奄美大島仮泊3月2日沖縄本島寄港3月3日宮古島寄港予定した3月1日午前7時カタ604船団予定通り奄美大島久慈湾へ入泊した第58任務部隊はこのときすでに南西諸島一帯向けて攻撃隊を発進させており、日本軍午前7時頃に沖縄地区に対して空襲警報発令大島地区でも警戒警報空襲警報順次発令された。船団各船は、久慈湾内にとどまり迎撃態勢取った午前7時40分過ぎに大島上空飛来しアメリカ軍第一波攻撃隊は、主に船団狙って攻撃開始した1D型戦時標準船大亜丸(大阪商船1942総トン)が真っ先攻撃され直撃爆弾1発と機銃掃射炎上次に湾の中央付近にいた貨客船大信丸が直撃爆弾2発により午前8時40分沈没1D型戦標船金山丸(橋本汽船:2220総トン)も大火災の末に爆沈被害続出した1D型戦標船第十一星丸(山下汽船1944総トン)は第一波攻撃甲板上の四式肉薄攻撃艇引火して火災起きたが、消火成功した第一波攻撃生き残った艦船午前9時20分頃、友鶴指示で同じ奄美大島篠川湾へ移動した第十一星丸は少しでも物資救おう搭載していた四式肉薄攻撃艇82隻のうち5隻を降ろし、うちエンジン始動できた2隻を使って大信丸の生存者救出などを行った午後2時頃から第二波攻撃隊が飛来し給糧艦埼が直撃弾を受けて沈没した第十一星丸も午後2時30分頃に爆弾3発が立て続け命中して着底火災拡大して午後4時25分に総員退去した。同船海上挺進30戦隊兵器主力四式肉薄攻撃艇82隻・爆雷73個・燃料等)や作業用爆薬700立方メートルなど大量可燃物積んでおり、午後7時30分頃に大爆発起こして四散した爆発時に付近作業中だった大尉以下の海軍将兵多数巻き込まれ死傷している。大亜丸は第二波至近弾を受けて浸水した沈没免れ、その他護衛艦艇3隻も機銃掃射により小破した。日本護衛部隊は、アメリカ軍機2機撃墜・2機撃破戦果として報じている。なお、本船団以外で3月1日空襲により撃沈された日本艦船は、沖縄本島水雷艇真鶴特設砲艦長白山丸、宮古島敷設艇燕・特設運送船とよさか丸・民間貨物船大建丸の多数上った輸送船全て撃沈破されたカタ604船団運航中止となり、生き残った護衛艦艇3隻は佐世保港回航された。損傷した大亜丸は加計呂麻島回航して応急修理開始したが、資材不足で作業が進まなかった。修理終わらないうちに3月23日から26日にかけて再び第58任務部隊による空襲を受け、弾薬尽きるまで応戦した3月26日午後4時頃に沈没した

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航海の経過

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ヒ68船団」の記事における「航海の経過」の解説

7月14日ヒ68船団シンガポール発った船団速力ヒ船団としては低速11ノットとされた。経由地マニラまでの行程は順調で、近くアメリカ潜水艦撃沈された軽巡洋艦大井救助のため海防艦倉橋一時離脱したほか何事もなく予定通り7月20日マニラ到着したマニラ編制替えが行われ、輸送船1隻が分離された。代わりに69船団から分離して増援部隊揚陸終えた航空母艦大鷹陸軍徴用貨客船安芸丸日本郵船:11409総トン)、同じくモマ01船団揚陸終えた陸軍特殊船2隻と徴用輸送船3隻、修理のため日本へ向かう特設給油船厳島丸日本水産:10006総トン)が加入した安芸丸船長同船航海速力17ノットという高速性能生かすため、他のヒ69船団分離船と同様に後発マモ01船団船団速力15ノット)へ加入させるよう現地第3船舶輸送司令部に対して要望したが、第3船舶輸送司令部許可しなかった。護衛部隊も白鷹海防艦2隻が抜け海防艦3隻と水雷艇1隻が入って7隻体制となった7月24日午前6時ヒ68船団は、低速TM型タンカー合わせて原速11.5ノットマニラ出港した。翌25日朝、船団は、アメリカアングラーフラッシャー、クレヴァルの3隻の潜水艦から成るウルフパック発見された。フラッシャー19日前述大井撃沈した潜水艦であった。この日の午後潜航したクレヴァルによる最初襲撃があったが、狙われ安芸丸貨物船東山丸大阪商船:8666総トン)は魚雷回避成功した護衛艦艇が爆雷により反撃行ったが、クレヴァルは逃げのびた。 7月26日未明からラオアグ西方南シナ海上において再開され襲撃では被害続出した。まず、午前3時14分にフラッシャー雷撃逓信省標準船TM型タンカー大鳥山丸(三井船舶:5280総トン)が魚雷2発を受けて積荷ガソリン爆発炎上した末、北緯1804東経11800分 / 北緯18.067度 東経118.000度 / 18.067; 118.000の地点沈没した。ほぼ同時に安芸丸船首付近に魚雷1発を受けて損傷、3分後に東山丸フラッシャー魚雷1発が当たり航行不能となった。この攻撃フラッシャー残っていた魚雷6発を撃ち尽くした特設運送艦聖川丸川崎汽船:6862総トン)も、午前5時、浮上してレーダー照準目視による襲撃をかけたアングラー魚雷1発が船首付近に命中し浸水した沈没免れた損傷した安芸丸はなお12ノット航行続けられたが、午前5時半頃にクレヴァルから魚雷3発を命中させられ、5分または20分後に北緯1756東経11807分 / 北緯17.933度 東経118.117度 / 17.933; 118.117で沈没した東山丸午前1147分に潜航中のクレヴァルからさらに魚雷4発を打ちこまれて炎上しながらも浮かんでいたが翌27日午前4時30分ないし5時に自衛装備砲弾爆雷誘爆起こし午前10時45分についに北緯1750東経11804分 / 北緯17.833度 東経118.067度 / 17.833; 118.067で沈没した船団主力7月27日次の経由地高雄へと入港し、少し遅れて同日正午過ぎに聖川丸海防艦平戸護衛され到着した同地再編成が行われ、低速TM型タンカー2隻と損傷した聖川丸除外された。代わりに輸送船1隻が新規加入している。後発マモ01船団もほぼ同時に到着しており、岩重(2011年によれば本船団へ合同した推定されるが、『第一海上護衛隊戦時日誌』では輸送船数を高雄で3隻から2隻に減らしているものの31日別行動出航している。 7月28日午後8時、ヒ68船団輸送船8隻は、海防艦4隻に減った護衛部とともに高雄出港台湾海峡抜けて北上した29日午前9時40分には、海峡北口北緯2508東経12047分 / 北緯25.133度 東経120.783度 / 25.133; 120.783で護衛第1号海防艦第11号海防艦が敵潜水艦1隻撃沈報じたが、アメリカ海軍式年表には該当する喪失艦や損傷艦記録が無い。高雄からの行程では船団損害を受けることは無く8月3日午後4時門司到着した

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