航海の経過
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ヒ81船団は、伊万里湾に集結して編成を整えた。加入船は、海軍特設給油船を含む大型高速タンカー5隻と、フィリピン行きで途中まで同行の陸軍特殊船4隻、元特設水上機母艦である海軍特設運送艦聖川丸の計10隻で、この時点では最高級の優秀船ばかりだった。護衛部隊は、空母神鷹のほか松型駆逐艦樫と海防艦5隻(対馬、択捉、大東、昭南、久米)で構成されていた。これが5回目(3往復目)の護衛任務となる神鷹(艦長石井藝江海軍少将)は、対潜警戒用に九七式艦上攻撃機14機を搭載していた。船団の指揮は、第8護衛船団司令部(司令官:佐藤勉海軍少将)が担当する。佐藤少将は聖川丸に将旗を掲げた。 11月14日朝、ヒ81船団は伊万里湾を出港した。当初の計画では対馬海峡を横断して済州島を回り込み、経由地である澎湖諸島の馬公に向けて航行する予定であった。しかし、敵潜水艦の無線電話と思われる交信電波が多数傍受されたため、対馬海峡途中から引き返し、14日夜は五島列島北端に避難して碇泊した。翌11月15日、船団は3列縦隊を組んだ厳戒態勢で航行を再開し、「神鷹」の搭載機が昼間は常時2機ずつ船団上空を警戒飛行した。厳重な警戒にも関わらず、同日正午前、済州島東方110km付近に差し掛かったところで、陸軍特殊船あきつ丸(日本海運:9186総トン、部隊約2000名、馬450匹)が、アメリカ潜水艦クイーンフィッシュの魚雷攻撃を受けてしまった。あきつ丸は、自衛用の爆雷や輸送中の弾薬が誘爆を起こし、わずか数分で転覆・沈没した。駒宮真七郎によれば、第23師団歩兵第64連隊関係者(中井春一聯隊長含む)など乗船者2576人のうち2000名以上が死亡した。 あきつ丸の生存者を収容したヒ81船団は、朝鮮半島南岸へと北寄りに針路を変え、爆雷を威嚇投下しつつ退避した。夜を徹して航行した船団は、16日未明に巨文島にたどり着き、様子をうかがってから済州島に移動と、島嶼を利用しながら前進した。 11月17日朝、ヒ81船団は次の仮泊地である舟山列島の泗礁山泊地(en)に向けて出航した。日中は一見何事もなく経過したが、実際には、アメリカ潜水艦と中国大陸から飛来したアメリカ海軍の哨戒機によって、船団は再び発見されていた。輸送船の煙突から出た黒煙(機関の不完全燃焼による)が、発見の原因になったとも言われる。アメリカ潜水艦群は、対潜哨戒機が着艦を余儀なくされる日没を待って襲撃行動を開始した。同日午後6時30分頃、陸軍特殊船摩耶山丸(三井船舶:9433総トン)が被雷して轟沈した(沈没まで約10分)。これは、アメリカ潜水艦ピクーダの攻撃であった。駒宮真七郎によれば、乗船中の第23師団司令部と歩兵第72連隊その他約4500人中3187人が戦死した。大内健二によると戦死者数は3437人で、太平洋戦争中の日本輸送船の犠牲者数としては富山丸に次ぐ第4位の惨事であった。護衛の海防艦昭南が爆雷で応戦し、敵潜水艦撃沈確実と報告したが、実際にはピクーダに損害はなかった。 摩耶山丸の沈没から5時間後の17日午後11時頃、今度は神鷹がアメリカ潜水艦スペードフィッシュに雷撃された。神鷹には魚雷4本が命中する。航空用ガソリンタンクが破損して炎上し、神鷹は爆発を繰り返しながら30分後に沈没した。ガソリンが海面に燃え広がったため生存者は少なく、乗員1160人中1100人が戦死した(生存者60名)。日本側の護衛艦は必死に対潜攻撃を行い、18日午前3時13分には海防艦対馬が敵潜水艦撃沈確実を報じたが、該当するアメリカ潜水艦の喪失記録は無い。なお、スペードフィッシュは陸軍特殊船神州丸を損傷させたとも主張している。 生き残った輸送船は、潜水艦の行動の難しい水深の浅い沿岸部をたどり、18日夕刻になんとか泗礁山泊地に逃げ込んだ。救助と対潜攻撃を終えた護衛艦が追いつくのを待ち、21日朝にヒ81船団は澎湖諸島の馬公へ向けて再出発した。潜水艦を警戒して、水深の浅い海域を選んで航行を続けた。 11月25日正午に澎湖諸島東方で、陸軍特殊船2隻(神州丸、吉備津丸)と海軍特設運送艦聖川丸、海防艦2隻(大東、対馬)が分離した。分離した陸軍船団は26日に無事に高雄に到着した。その後、陸軍特殊船2隻(神州丸、吉備津丸)は高雄発マニラ行きタマ33船団を編成し、海防艦4隻と掃海艇1隻を追加した護衛部隊7隻を伴って30日に出航する。空襲回避のため目的地をマニラからサンフェルナンドに変更、12月2日に同地へ到着した。 タンカー5隻・護衛艦4隻となったヒ81船団は、11月25日に経由地の馬公に入港した。故障したタンカーのみりい丸を同地で分離し、護衛にミ27船団(後述)の生き残りなど海防艦2隻を加えて27日に出港、南シナ海を通って12月4日にシンガポールに到着した。
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航海の経過
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1943年6月15日午前8時45分、GP55船団は、在来型の貨物船等10隻とアメリカ軍の戦車揚陸艦(LST)3隻、護衛としてオーストラリア海軍所属バサースト級コルベット(en)が以下の5隻「ウォーナンブール」(en)・「デロレイン」(en)・「カルガリー」(en)・「クータマンドラ」(en)・「バンダバーグ」(en)という編制でブリスベンを目指してシドニーを出航した。貨物船のうち「ポートマー」(5551トン)はアメリカ陸軍徴用船で、弾薬およびガソリンを積んでいた。護衛部隊の最先任士官は「ウォーナンブール」艦長のR・N・リード中佐であった。 このとき、シドニー沖では日本潜水艦「伊174」が待ち伏せ中であった。同艦は6月1日から数回の襲撃を行った後で、攻撃に使いやすい艦首発射管には魚雷が2発しか残っていない状態だった。同艦艦長の南部伸清少佐は6月14日の夜に航空機を2回と駆逐艦を1回発見したことから、護送船団の運航または対潜掃討を予感していた。 6月15日午後5時15分、まもなく日没の頃、船団は、スモーキー岬(en)東方35浬地点に差し掛かった。船団は5列縦隊(中央3列が各3隻・両端列が各2隻)を組んだ編隊航行をするはずであったが、左から4列目の2番船だった「ポートマー」が後落してしまっており、同列3番船のLST-1級戦車揚陸艦「LST-469」(1625トン)を追い越して規定の位置に戻ろうとしている状況であった。「伊174」は水中聴音器で船団を探知すると、距離8000mで潜望鏡により状況を確認後、潜水したまま3000mまで接近して艦首から魚雷2発を発射した。船団側は5隻の護衛艦が取り囲むほか、アンソン哨戒機1機が18海里先行して前路哨戒にあたっていたが、魚雷が迫るまで襲撃に気づいていなかった。魚雷は、「ポートマー」が「LST-469」をちょうど右舷から追い越そうと重なった瞬間に届き、船団側が回避するまもなく両船に1発ずつ命中した。「ポートマー」は1番船倉の水線部に被弾して積荷の弾薬とガソリンが爆発炎上すると10分間で沈没し、乗船者2人が死亡、71人がコルベット「デロレイン」に救助された。「LST-469」は航行不能に陥り、乗船者26人が死亡または行方不明、17人が負傷した。 奇襲された船団は退避し、「デロレイン」を救助任務に充て、「ウォーナンブール」と「カルガリー」が現場に留まってソナーで捜索、23分後に反応を捉えると目標が探知できなくなるまで計4回の爆雷攻撃を加えた。「伊174」は潜望鏡で戦果確認後に反転、設計上の安全深度75mを超える97mまで潜航退避した。オーストラリア側は漂う揮発臭から敵潜水艦を撃破した可能性が高いと考えていたが、実際には「伊174」は前部発射管室をはじめ鋲の緩みや電路関係などに軽微な損害を受けるにとどまった。その後、「ウォーナンブール」は船団に復帰し、「デロレイン」は救助した「ポートマー」生存者と「LST-469」の負傷者をコフスハーバーに送り、「カルガリー」は「LST-469」に付き添った。「LST-469」は沈没を免れ、翌6月16日夕刻にブリスベンから迎えに出たタグボート「リザーブ」(en)に曳航されて、6月20日にシドニーへ入港した。 オーストラリア軍は、損傷したと思われる日本潜水艦にとどめを刺すため特別の対潜作戦を実施した。負傷者等を上陸させた「デロレイン」は遭難現場に戻って、「カルガリー」及び応援に駆けつけたオーストラリア駆逐艦「ヴェンデッタ」とともに、6月18日及び6月19日を通じて潜水艦捜索に従事した。6月18日にボーフォート雷撃機がコフスハーバー沖で敵潜水艦に対する銃爆撃を記録しているほか、コルベット「ジーロング」もモートン岬北東40海里で潜水艦らしきものを探知して攻撃しているが、これらの地点で実際に日本潜水艦が作戦行動中だった証拠は確認できていない。なお、「伊174」は艦首魚雷を使い果たしたため哨戒を打ち切り、7月1日にトラック泊地に帰還した。
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航海の経過
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11日、第4611船団はサイパン島のタナパグ沖を出港した。船団速力は8ノットと遅かった。横須賀へ向けて出航済みだった第4号海防艦は、反転して船団の護衛に協力するよう命じられた。 12日朝9時前、サイパン北西洋上で第4号海防艦が船団に合流した。午前9時35分、船団が北緯17度32分・東経144度00分付近に差し掛かったところ、アメリカ空母機30-40機が飛来、攻撃を開始した。これは4つに分かれた第58任務部隊のうちの第4群、第58.4任務群(司令官:ウィリアム・K・ハリル少将)に属する空母「エセックス」「ラングレー」「カウペンス」の搭載機で、偶然に船団を発見したものだった。南雲忠一中部太平洋方面艦隊司令長官は船団が攻撃を受けたことを知ったが、救援に派遣できる航空戦力が残っていなかった。南雲中将は硫黄島基地などに通報して支援を求めた。午前中の攻撃に続き、午後3時頃に約30機襲来、午後4時半前に約20機襲来と波状攻撃が船団を襲った。スコールの到来で空襲は止んだが、第二波の攻撃で旗艦「鴻」は爆沈し、輸送船は「龍田川丸」「濱江丸」「稲荷丸」「門司丸」の4隻を残して翌日には沈んだ。特設捕獲網艇「國光丸」も撃沈され、その他の護衛艦艇もほとんど損傷した。 12日夜には船団各艦船は、損傷が激しく救助もままならない漂流状態となり、しだいに分裂した。第4号海防艦から船団壊滅の報告を受けた横須賀鎮守府は、父島根拠地隊に救援要請して、13日朝、父島碇泊中の第3606船団から第16号駆潜艇と第18号駆潜艇を差し向けたが、夕刻には救援任務中止となった。船団の生き残りの第20号駆潜特務艇は「龍田川丸」を護衛して父島へ向かおうとしたが、2隻とも損傷が激しく行動困難なうちにはぐれ、第20号駆潜特務艇だけが15日に母島へ到着した。 輸送船のうち「門司丸」は、「ばたびあ丸」の生存者を救助後、12日午前11時30分に脱出を断念して単独でサイパンへと引き返した。「門司丸」は、14日午前2時頃にサイパン沖まで戻ってきたが、ちょうどアメリカ艦隊による対地艦砲射撃の最中であった。「門司丸」も砲撃目標とされたため、午前3時30分には総員退去となり、午前5時30分に沈没した。 一方、第58任務部隊は、日本軍の反撃戦力を撃破するため小笠原諸島一帯を空襲することにし、第58.1任務群(司令官:ジョゼフ・J・クラーク少将)と第58.4任務群を北方に分遣した。15日、2群合わせて7隻の空母搭載機により、小笠原諸島への空襲が行われた。「龍田川丸」は、小笠原諸島東方洋上で軽空母「バターン」の対潜哨戒機に発見されてさらに損傷、フレッチャー級駆逐艦「チャレット」と「ボイド」(en)によってとどめを刺され、北緯25度2分・東経144度37分付近に沈んだ。 18日、貨物船「稲荷丸」が名古屋港へとたどり着いた。貨物船「濱江丸」も、21日に激しく損傷した状態で硫黄島へと到着。その後、特設駆潜艇「文丸」と航空機の援護を受けて父島へと移動した。護衛部隊は、第4号海防艦が18日に横須賀へ単艦で帰投したほか、それぞれ日本側拠点へ帰投した。
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航海の経過
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5月29日に本船団は横浜沖を出航した。戦史叢書の『マリアナ沖海戦』は「杉山丸」(山下汽船:4379総トン)と「神鹿丸」(栗林商船:2851総トン)を本船団加入船に挙げ、駒宮真七郎によれば、うち「杉山丸」が出航間もなく被雷・損傷して引き返した。しかし、駒宮は6月6日東京湾出航の第3606船団加入船にも「杉山丸」「神鹿丸」を挙げており、また、アメリカ海軍公式年表によれば「杉山丸」の損傷は6月7日である。 6月4日、船団は第17.12任務群のアメリカ潜水艦に発見され、3日間にもわたる追跡攻撃を受けた。同任務群のうち「パイロットフィッシュ」はうまく射点に着けなかったが、「シャーク」と「ピンタド」の2隻が攻撃の機会をつかみ、船団の輸送船を次々と沈めた。まず4日午後3時30分に、貨物船「勝川丸」(川崎汽船:6886総トン)が「シャーク」の雷撃で沈没し、乗船陸軍将兵2884人の半数が海没。翌5日午後4時30分、船団付近に敵潜水艦を探知して間もなく、歩兵第118連隊などの兵員3272人を乗せた貨物船「高岡丸」(日本郵船:7006総トン)が「シャーク」の発射した魚雷3発を受け、11分後に沈没。「シャーク」は、海軍徴用の貨物船「たまひめ丸」(浜根汽船:3080総トン)も続けて撃沈した。6日には海軍徴用の貨物船「鹿島山丸」(三井船舶:2825総トン)と陸軍将兵2816人乗船の貨物船「はあぶる丸」(大阪商船:5652総トン)が「ピンタド」により撃沈された。 船団の生き残り艦船は、6月9日にサイパン島に到着した。
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航海の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/29 10:04 UTC 版)
3月13日に鹿児島湾で編成を整えたカナ304船団は、午後10時に出航した。情勢が極度に不良と判断したため奄美大島古仁屋で一時待機したが、16日午後10時に前進を再開した。しかし、18日昼に硫黄鳥島南西55km付近で敵機1機に発見された。警戒を強化してなおも前進していたところ、同日午後5時頃に貨物船第三筑紫丸(三井船舶:1012総トン)が雷撃された。左舷中央に被雷した第三筑紫丸は船体が切断されて急速に沈没した。これは、アメリカの潜水艦トリガーの雷撃でアメリカ側記録によると沈没地点は北緯28度05分 東経126度44分 / 北緯28.083度 東経126.733度 / 28.083; 126.733である。 第三筑紫丸撃沈と同じ3月18日、アメリカ第58任務部隊は九州や瀬戸内海の日本軍拠点に対する空襲を開始していた。日本側はこれ以上の航行継続は危険と判断し、カナ304船団のジョウ泗列島泗礁山泊地への退避を決心。船団は、3月20日午後1時に泗礁山へ到着した。 3月18日から21日にかけ、日本の基地航空部隊と第58任務部隊の間で九州沖航空戦が展開された。日本側は、この戦闘によりアメリカ空母5隻などを撃沈したと過大に戦果判定した。22日には戦闘が止み、日本側は第58任務部隊が再編のためウルシー環礁へ撤退中と誤認した。 戦況が好転したとの判断に基づき、カナ304船団は、3月22日午後5時に泗礁山泊地から那覇へ向けて再出航した。ところが実際には第58任務部隊は日本近海にとどまっており、23日に南西諸島に対する空襲を開始した。那覇へ向かっていたカナ101船団(輸送船1隻・護衛艦3隻)などの日本艦船に被害が続出した。情勢が再び悪化したのを受け、カナ304船団は針路を北20度方向へ変えて退避に移った。 3月24日午前8時30分、退避中のカナ304船団はアメリカ陸軍航空軍のB-24爆撃機または海軍型のPB4Y哨戒爆撃機により発見された。2機のB-24の爆撃で、特設掃海艇関丸が午前11時45分にトカラ列島沖北緯29度12分 東経125度13分 / 北緯29.200度 東経125.217度 / 29.200; 125.217で沈没、貨物船荘河丸(大連汽船:2813総トン)も至近弾で機関が故障して航行不能に陥った。さらに、第58任務部隊の第1群である第58.1任務群(司令官:ジョゼフ・J・クラーク少将)に属する正規空母ベニントン、ホーネットと軽空母ベロー・ウッド、サン・ジャシントの搭載機が波状攻撃を加えた。午後3時50分頃の約40機による空襲で荘河丸がとどめを刺され、北緯29度13分 東経124度47分 / 北緯29.217度 東経124.783度 / 29.217; 124.783付近で沈没。午後5時頃には約120機が船団を攻撃する状態となり、午後5時20分頃に開城丸(大阪商船:2025総トン)が沈没、杭州丸(大阪商船:2812総トン)やその他護衛艦艇もアメリカ側記録北緯29度13分 東経124度47分 / 北緯29.217度 東経124.783度 / 29.217; 124.783付近でことごとく撃沈された。
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航海の経過
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10月20日23時40分頃、編成を終えたマタ30船団はマニラを出港した。加入輸送船は12隻で、ミ18船団やミマ11船団でボルネオ島ミリから来た資源満載の船や、部隊輸送の帰りの空船、海軍運送船などが入り混じっていた。うち貨客船黒龍丸(大阪商船、6379総トン)は遭難船員など民間人多数を乗せ、2A型戦時標準貨物船阿里山丸(三井船舶、6,886総トン)は捕虜1781人を乗せたいわゆるヘルシップ(ほかに遭難船員204人など乗船)であった。5隻の護衛部隊も寄せ集めで、駆逐艦春風、呉竹は海上護衛総隊の第一海上護衛隊所属だったが、駆逐艦竹は連合艦隊の第三十一戦隊所属、第20号駆潜艇は第31特別根拠地隊所属とバラバラだった。なお、護衛艦に数えられている鞍埼(左下画像)の実態は貨物船改装の給糧艦で、逆に輸送船に数えられている映海丸(陸軍省、112排水トン)は陸軍船舶兵運用の砲艇である。 船団は輸送船を3列縦隊にし、周囲に春風を先頭として護衛艦を配置した隊形を組み、8ノットの低速で航行した。しかし、23日朝から吹き出した強風の影響もあって、阿里山丸など隊列から落伍する船が出た。23日正午ごろ、船団最優秀船で元特設水上機母艦である特設運送船君川丸(川崎汽船、6,863総トン)が潜望鏡らしきものを発見して他の加入船に警戒を呼びかけた。 ウルフパック戦術を採っていたアメリカ海軍は、ソーフィッシュ(USS Sawfish, SS-276)の艦長のアラン・バニスター中佐率いる第17.15任務群やシャーク(USS Shark, SS-314)の艦長エドワード・ブレイクリー中佐の指揮するグループなど、7隻の潜水艦をルソン海峡西方に配置していた。15時38分、ソーフィッシュが船団を発見し、他の6隻の潜水艦に通報。7隻のうち、ソーフィッシュを含む6隻の潜水艦群は船団を発見し、無線電話で連絡を取り合うと連携して攻撃を開始した。 23日17時28分頃、北緯18度58分 東経118度31分 / 北緯18.967度 東経118.517度 / 18.967; 118.517のルソン島ボヘアドール岬西北西沖で、ソーフィッシュは魚雷4本を発射。うち1本ないし4本が、ヒマの実を積んで、船団最後尾を航行中の君川丸の左舷後部に命中して沈没した。24日1時、ボヘアドール岬北西沖で黒龍丸の右舷2番船倉、機関室に魚雷2本が命中し、黒龍丸は1時半にスクリューをゆっくりと回しながら横転し、船首から沈没した。3時15分、スヌーク(USS Snook, SS-279)は「7,500トン級タンカー」こと、ミ18船団から編入されたタンカーで陸軍油槽船の菊水丸(拿捕船/三井船舶委託、3,887総トン/旧蘭船Iris)と「7,500トン級輸送船」に対して魚雷を3本ずつ計6本発射。菊水丸の船首および缶室に魚雷3本が命中(1本は不発)し炎上した後沈没した。6時5分、北緯19度58分 東経118度33分 / 北緯19.967度 東経118.550度 / 19.967; 118.550のルソン島マイライラ岬北西沖でアイスフィッシュ(USS Icefish, SS-367)が雷撃を行い、ミマ11船団から編入された第一次大戦の英E型戦時標準貨物船天晨丸(瑞光商船、4,236総トン)の左舷2番船倉に魚雷2本が命中。爆発により天晨丸は船橋直前部で船体が分断され、2分で沈没。7時58分、ドラム(USS Drum, SS-228)はルソン島ボヘアドール岬北西33km地点付近で魚雷4本を発射。ミマ11船団から編入された貨物船信貴山丸(三井船舶、4,725総トン)の3番船倉、機関室、4番船倉に1本ずつ命中し、1分30秒で沈没した。10時55分、シードラゴン(USS Seadragon, SS-194)はこの時点で船団の1番船となっていた海軍徴用船で1B型戦時標準貨物船の大天丸(大阪商船、4,642総トン)へ向け魚雷を4本発射。大天丸は部隊輸送の帰りの空船であったため船体が浮かび上がって5ノットしか出せなかったが、最初の魚雷2本は何とか回避。しかし、1本が右舷機関室後部に命中。大天丸は12時ごろに船尾を下にして沈没した。12時25分、北緯19度32分 東経118度37分 / 北緯19.533度 東経118.617度 / 19.533; 118.617のルソン島ボヘアドール岬西北西260km地点付近で、ミマ11船団から編入された陸軍輸送船第一眞盛丸(原商事、5,864総トン)が雷撃を受けて沈没し、遭難者の約半数が海軍徴用船で貨客船の營口丸(日本郵船、1,847総トン)に救助された。營口丸は停船して第一眞盛丸の遭難者を救助しており、そのデッキは救助した遭難者で混雑していた。護衛艦は營口丸の周囲を警戒していたが、その隙をついてシードラゴンが14時4分に魚雷を発射。魚雷は營口丸の左舷船首に命中し、營口丸はすぐに船体前半部を海中に沈め、23時50分に沈没。營口丸に救助された第一眞盛丸の遭難者の相当数が戦死した。17時半、ルソン島ボヘアドール岬北西沖で、阿里山丸の右舷3番船倉に2本、船尾に1本が命中。船体は船尾の被雷部分で分断されて、19時40分に沈没した。 戦後、シードラゴンの雷撃で黒龍丸が撃沈されたと認定されているが、シードラゴンはその時間にはなんら戦闘行為を行っていない。ほぼ同じ時刻に「7,500トン級輸送船」に魚雷を2本命中させたスヌークこそが、黒龍丸を撃沈した真の潜水艦の可能性もある。また、スヌークが第一眞盛丸、阿里山丸を撃沈したと認定されているが、スヌークは5時ごろの四度目の攻撃以降はアクションを起こしておらず、他に攻撃を行った5隻も両船の被雷時刻に戦闘行動を行っておらず、どちらもシャークの雷撃による戦果と思われる。 日本側護衛部隊も必死に応戦し、爆雷を投下した。23日夜には大型飛行艇が、24日には駆逐艦栂が護衛強化及び敵潜水艦制圧のために現場へ派遣された。乱戦状態の中、春風は24日に2回に渡って爆雷17発ずつを投下し、17時44分に不確実ながら敵潜水艦撃沈を記録しているところ、アメリカの潜水艦シャークが僚艦と交信して船団攻撃に移った後に行方不明となっていることから、おそらく春風によって撃沈されたものと考えられている。 輸送船のほとんどを撃沈されたマタ30船団は、小型船3隻だけとなって10月26日に高雄へと到着した。
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航海の経過
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2月26日、鹿児島港で部隊と物資を積んだ輸送船4隻は、船団を組み出港した。護衛は、第四海上護衛隊の水雷艇友鶴以下4隻で、駒宮(1987年)によれば出港時は8隻だったが故障で4隻が離脱した。出港からまもなく敵機動部隊出現の可能性が高まったため、船団は鹿児島湾内で一時待機し、27日深夜に再出発した。島伝いの夜間航行を活用して空襲を避けて進む計画で、3月1日に奄美大島に仮泊、3月2日に沖縄本島寄港、3月3日に宮古島寄港を予定した。 3月1日午前7時、カタ604船団は予定通りに奄美大島久慈湾へ入泊した。第58任務部隊はこのときすでに南西諸島一帯に向けて攻撃隊を発進させており、日本軍は午前7時頃に沖縄地区に対して空襲警報を発令、大島地区でも警戒警報・空襲警報が順次発令された。船団各船は、久慈湾内にとどまり迎撃態勢を取った。午前7時40分過ぎに大島上空へ飛来したアメリカ軍第一波攻撃隊は、主に船団を狙って攻撃を開始した。1D型戦時標準船大亜丸(大阪商船:1942総トン)が真っ先に攻撃されて直撃爆弾1発と機銃掃射で炎上、次に湾の中央付近にいた貨客船大信丸が直撃爆弾2発により午前8時40分に沈没、1D型戦標船金山丸(橋本汽船:2220総トン)も大火災の末に爆沈と被害が続出した。1D型戦標船第十一星丸(山下汽船:1944総トン)は第一波の攻撃で甲板上の四式肉薄攻撃艇に引火して火災が起きたが、消火に成功した。 第一波の攻撃を生き残った艦船は午前9時20分頃、友鶴の指示で同じ奄美大島の篠川湾へ移動した。第十一星丸は少しでも物資を救おうと搭載していた四式肉薄攻撃艇82隻のうち5隻を降ろし、うちエンジンが始動できた2隻を使って大信丸の生存者救出などを行った。午後2時頃から第二波の攻撃隊が飛来し、給糧艦杵埼が直撃弾を受けて沈没した。第十一星丸も午後2時30分頃に爆弾3発が立て続けに命中して着底、火災が拡大して午後4時25分に総員退去した。同船は海上挺進第30戦隊の兵器主力(四式肉薄攻撃艇82隻・爆雷73個・燃料等)や作業用爆薬700立方メートルなど大量の可燃物を積んでおり、午後7時30分頃に大爆発を起こして四散した。爆発時に付近で作業中だった大尉以下の海軍将兵多数が巻き込まれて死傷している。大亜丸は第二波で至近弾を受けて浸水したが沈没は免れ、その他護衛艦艇3隻も機銃掃射により小破した。日本側護衛部隊は、アメリカ軍機2機撃墜・2機撃破を戦果として報じている。なお、本船団以外で3月1日の空襲により撃沈された日本艦船は、沖縄本島で水雷艇真鶴・特設砲艦長白山丸、宮古島で敷設艇燕・特設運送船とよさか丸・民間貨物船大建丸の多数に上った。 輸送船全てが撃沈破されたカタ604船団の運航は中止となり、生き残った護衛艦艇3隻は佐世保港へ回航された。損傷した大亜丸は加計呂麻島に回航して応急修理を開始したが、資材不足で作業が進まなかった。修理が終わらないうちに3月23日から26日にかけて再び第58任務部隊による空襲を受け、弾薬が尽きるまで応戦したが3月26日午後4時頃に沈没した。
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航海の経過
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7月14日、ヒ68船団はシンガポールを発った。船団速力はヒ船団としては低速の11ノットとされた。経由地マニラまでの行程は順調で、近くでアメリカの潜水艦に撃沈された軽巡洋艦大井の救助のため海防艦倉橋が一時離脱したほか何事もなく、予定通りの7月20日にマニラへ到着した。 マニラで編制替えが行われ、輸送船1隻が分離された。代わりにヒ69船団から分離して増援部隊の揚陸を終えた航空母艦大鷹と陸軍徴用の貨客船安芸丸(日本郵船:11409総トン)、同じくモマ01船団で揚陸を終えた陸軍特殊船2隻と徴用輸送船3隻、修理のため日本へ向かう特設給油船厳島丸(日本水産:10006総トン)が加入した。安芸丸の船長は同船の航海速力17ノットという高速性能を生かすため、他のヒ69船団分離船と同様に後発のマモ01船団(船団速力15ノット)へ加入させるよう現地の第3船舶輸送司令部に対して要望したが、第3船舶輸送司令部は許可しなかった。護衛部隊も白鷹と海防艦2隻が抜け、海防艦3隻と水雷艇1隻が入って7隻体制となった。 7月24日午前6時、ヒ68船団は、低速のTM型タンカーに合わせて原速11.5ノットでマニラを出港した。翌25日朝、船団は、アメリカのアングラー、フラッシャー、クレヴァルの3隻の潜水艦から成るウルフパックに発見された。フラッシャーは19日に前述の大井を撃沈した潜水艦であった。この日の午後、潜航したクレヴァルによる最初の襲撃があったが、狙われた安芸丸と貨物船東山丸(大阪商船:8666総トン)は魚雷の回避に成功した。護衛艦艇が爆雷により反撃を行ったが、クレヴァルは逃げのびた。 7月26日未明からラオアグ西方の南シナ海上において再開された襲撃では被害が続出した。まず、午前3時14分にフラッシャーの雷撃で逓信省標準船TM型タンカー大鳥山丸(三井船舶:5280総トン)が魚雷2発を受けて、積荷のガソリンが爆発炎上した末、北緯18度04分 東経118度00分 / 北緯18.067度 東経118.000度 / 18.067; 118.000の地点で沈没した。ほぼ同時に安芸丸も船首付近に魚雷1発を受けて損傷、3分後に東山丸もフラッシャーの魚雷1発が当たり航行不能となった。この攻撃でフラッシャーは残っていた魚雷6発を撃ち尽くした。特設運送艦聖川丸(川崎汽船:6862総トン)も、午前5時、浮上してレーダー照準と目視による襲撃をかけたアングラーの魚雷1発が船首付近に命中し、浸水したが沈没は免れた。損傷した安芸丸はなお12ノットで航行を続けられたが、午前5時半頃にクレヴァルから魚雷3発を命中させられ、5分または20分後に北緯17度56分 東経118度07分 / 北緯17.933度 東経118.117度 / 17.933; 118.117で沈没した。東山丸は午前11時47分に潜航中のクレヴァルからさらに魚雷4発を打ちこまれて炎上しながらも浮かんでいたが翌27日午前4時30分ないし5時に自衛装備の砲弾や爆雷が誘爆を起こし、午前10時45分についに北緯17度50分 東経118度04分 / 北緯17.833度 東経118.067度 / 17.833; 118.067で沈没した。 船団主力は7月27日に次の経由地の高雄へと入港し、少し遅れて同日正午過ぎに聖川丸も海防艦平戸に護衛されて到着した。同地で再編成が行われ、低速のTM型タンカー2隻と損傷した聖川丸は除外された。代わりに輸送船1隻が新規加入している。後発のマモ01船団もほぼ同時に到着しており、岩重(2011年)によれば本船団へ合同したと推定されるが、『第一海上護衛隊戦時日誌』では輸送船数を高雄で3隻から2隻に減らしているものの31日に別行動で出航している。 7月28日午後8時、ヒ68船団の輸送船8隻は、海防艦4隻に減った護衛部隊とともに高雄を出港、台湾海峡を抜けて北上した。29日午前9時40分には、海峡北口の北緯25度08分 東経120度47分 / 北緯25.133度 東経120.783度 / 25.133; 120.783で護衛の第1号海防艦と第11号海防艦が敵潜水艦1隻撃沈を報じたが、アメリカ海軍公式年表には該当する喪失艦や損傷艦の記録が無い。高雄からの行程では船団が損害を受けることは無く、8月3日午後4時に門司へ到着した。
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