日本軍の反撃
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2月16日時点のトラック泊地所在航空兵力は、陸攻20、艦戦39、艦爆45、夜間戦闘機9、天山28、九七艦攻7、水上機26、合計174機であったという。2月17日午前9時時点のトラック泊地稼動機は、戦闘機約20、夜間戦闘機2、天山11、九七艦攻5、九九艦爆4、水上戦闘機9という記録がある。トラック大空襲の連絡をうけた連合艦隊司令部(横須賀所在)は、同日11時01分(日本時間)に、第十一航空艦隊の陸攻・艦攻全力をトラック泊地に派遣し、内南洋部隊指揮官(第四艦隊司令長官)の指揮を受けるよう発令した。16時22分、連合艦隊は十一航艦と第二航空戦隊の移動可能航空兵力全力、十三航艦の七〇五空と三三一空を内南洋部隊に編入し、第六十一航空戦隊のマリアナ進出を発令した。そして内南洋所在の全陸上機を第一航空艦隊(司令長官角田覚治海軍中将)が指揮するよう命じた。この発令時による航空機移動量は、南西方面から約100機、ラバウルから100機、21日に一航艦から170~180機であった。 偵察機の報告をうけて、第四艦隊は午前9時6分に敵情を報告すると共に「艦攻12、艦爆4を以て攻撃準備中」と発信した。実際は五〇一空の戦闘爆撃機(250kg爆弾を装備した零戦)5、五五二空の九九艦爆小数機による昼間攻撃を敢行したのみ。同日夜、日本軍は春島に残存する九七艦攻4機をアメリカ艦隊攻撃のため出撃させた。これはラバウルに進出予定の第二航空戦隊所属機か、五八二空の所属機とされる。また、テニアンの第二十二航空戦隊司令官は陸上攻撃機による薄暮攻撃を命じ、七五三空と七五五空の陸攻7機(うち触接役2機)を出撃させた。陸攻隊は14時過ぎにテニアンを離陸する。17日の晩の月齢は23日だったが、雲のある海域だと下弦の月は隠れてしまっていた。各隊は敵を求めばらばらに行動したが、このうち七五五空の陸攻1機が20時30分に雷撃をおこない、巡洋艦1隻撃沈を報告した。実際には、空母イントレピッドに魚雷1本が命中していた。イントレピッドは右舷艦尾を破壊されて舵が停止したため、6隻の護衛をつけられエニウェトクに後退した。この作戦におけるアメリカ軍最大の損害である。 一方、アメリカ軍も空母エンタープライズからTBFアベンジャー12機が夜間雷撃(空母搭載機では初めて)の為に発進し、艦船に夜間攻撃を加えた。このときの使用機はレーダーを試験的に装備したTBF-1Cであった。 翌日の迎撃に備え、二〇四空では機体の修理・整備を実施して零戦6機が使用可能となり、爆装して空母に攻撃する計画を立てたが、昼間の空襲で機体の側に落とされていた時限爆弾が爆発したため、全機飛行不能となり計画を中止した。17日の日本軍損害は、未帰還67、地上撃破96機にのぼった。
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日本軍の反撃
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「礼号作戦」も参照 日本海軍は、ミンドロ島の利用を妨害するため、重巡足柄及び軽巡大淀、駆逐艦6隻の艦隊をマンガリン湾に差し向けて、12月26日に飛行場及び停泊中の船団への攻撃を行った(礼号作戦)。輸送船1隻を沈めるなどの戦果を挙げたが、基地の利用を阻止するほどには達しなかった。日本陸軍航空隊による空襲もかなりの成果を挙げたが、決定的ではなかった。 ミンドロ島の飛行場が稼働することでフィリピン周辺の制空権が完全に奪われることを恐れた大本営や連合艦隊、第4航空軍は、逆上陸作戦の実施を第14方面軍に対して要求した。しかし、すでにルソン島での持久戦方針を固めていた第14方面軍は、戦力分散につながる逆上陸実施にすぐには同意しなかった。最終的には、第8師団歩兵第17連隊から抽出した斬り込み隊113名のみが、飛行場への妨害攻撃任務で送られることになった。 幡谷中尉の指揮する斬り込み隊は、船舶工兵第24連隊の大発動艇により12月28日にルソン島を出発し、1945年1月5日にミンドロ島東部へ上陸した。近在のアメリカ軍と交戦の後に、斬り込み隊は乗船して撤収した。1月18日に斬り込み隊はミンドロ島南部へ再上陸し、2月23日にサンホセ飛行場付近まで進出したが、その後の戦闘により壊滅した。
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日本軍の反撃
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「マーシャル諸島沖航空戦」の記事における「日本軍の反撃」の解説
日本側の索敵機はルオット、ウォッジェ、マロエラップから索敵機を発進させ第50任務部隊を捜し求め、7時ごろにルオットからの索敵機がルオットの45度170海里の地点で第50任務部隊を発見する。これより先の6時30分、第531航空隊の「天山」6機(松崎三男大尉)がウォッジェを発進し、マロエラップで魚雷を装備の上7時40分から8時30分にかけて第50任務部隊攻撃へと向かったが、9時40分以降消息が途絶えた。 パウナル少将は正午から第二次攻撃を行う予定であったが、搭乗員の疲労と日本軍の反撃を警戒して、「ヨークタウン」からのウォッジェ攻撃隊29機を発進させた後、避退行動に移った。夕刻17時10分、第752航空隊の索敵機はビカール環礁近海で第50任務部隊を発見。16時20分にマロエラップを発進して敵影を捜し求めた、野中五郎少佐を指揮官とする一式陸上攻撃機9機は、18時ごろに第50任務部隊を発見して攻撃に移り、空母と巡洋艦各1隻撃沈、空母1隻撃破の戦果を報じた。2機が損傷したが、全機帰還した。一方、エニウェトク環礁からルオットに進出予定だった第753航空隊の一式陸攻8機も午後になってルオットに到着して間もなく攻撃に向かい、20時30分頃に第50任務部隊を発見して攻撃を行い、空母1隻と巡洋艦2隻の撃沈を報じた。日本側は、2機が未帰還となった。 アメリカ側の記録では、空母「レキシントン」が魚雷1本を艦尾に受けて中破したほか、軽巡「モービル」は自艦の高角砲によって機銃座を誤射し、駆逐艦「テイラー」も軽巡「オークランド」に誤射されて損傷した。第50任務部隊は12月9日、真珠湾に帰投した。
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日本軍の反撃
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「フィリピンの戦い (1944-1945年)」の記事における「日本軍の反撃」の解説
大本営海軍部が発表した台湾沖航空戦とレイテ沖海戦の誇大戦果を信じた陸軍部は、「レイテ島決戦」に戦略転換を図り、レイテ島に増援を送った(多号作戦)。この輸送は兵員や物資を航空機により攻撃されやすい海上に長時間曝露することになるが、アメリカ機動部隊は壊滅したと信じた大本営陸軍部は意に介さなかった。しかし、(壊滅したはずの)アメリカ機動部隊などの空襲を受け、第1師団だけは、航空援護もあって11月9日までに無事に上陸することができたものの、そのほかの第26師団や第68旅団などはいずれも物資の過半が海へ沈んだ。そのため、ガダルカナル島の戦いと同じく物資の著しく欠乏した戦闘となった。第1師団と第26師団などが到着後の11月20日頃の日本軍兵力は、人員約43000名、馬約650頭、軍用車両約190台だった。 第1師団は、1944年11月1日にレイテ島西岸のオルモックへ上陸し、3日にカボカン方面で米第24師団と遭遇して戦闘になった。アメリカ軍は、途中11月24日に第32師団へ交替して攻撃を続け、12月5日から総攻撃を行った。第1師団は第102師団の一部とともに悪戦苦闘し、12月21日に西方への撤退を開始した。 日本軍は、第26師団と第16師団残存部隊に加え、薫空挺隊と高千穂空挺隊を連合軍飛行場へ突入させて反撃を試みた。だが、第26師団がブラウエンまであと10 kmまで迫った時点で、西海岸のイピルにアメリカ軍が上陸したため、攻撃を中止した。
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日本軍の反撃
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第6軍はソ連軍の猛攻撃の中で、反転攻勢に出るべく準備を進めていた。小松原は増援の第7師団森田旅団ができるだけ敵主力を引き付けている間に、第23師団主力が短距離でソ連軍の側面に回り込むという作戦を主張したが、安全策をとって東南東に大きく迂回してハルハ河まで追撃するとした第6軍案と真っ向から対立し8月21日を丸1日浪費してしまった。22日には砲兵団の畑少将も加わって激論を交わしたが、結局上部組織である第6軍の案が採用され、23日に各部隊に伝達された。 作戦計画によれば小林少将率いる歩兵第71、72の諸連隊を併せて右翼(北)を進み、森田少将率いる歩兵第26、28連隊が左翼(北)を進撃し、ソ連軍主力で南方から日本軍を包囲しようとしていた南方軍を逆に包囲する作戦を立てた。攻撃開始は翌24日と決められた。攻撃計画が決定した23日午後に関東軍司令部から派遣された辻が、道中ソ連軍戦闘機や砲撃により命からがら前線司令部にたどり着いたが、司令官の荻洲はウィスキーを飲んでいたところで、辻に「君一杯どうかね、明日の前祝に」と語りかけるなど余裕しゃくしゃくであった。翌24日になって、攻撃参加予定部隊はすでにソ連軍の猛攻で防戦一方で、攻撃開始前に間に合った部隊は歩兵第72連隊と第28連隊の合計5個大隊であり、予定の9個大隊の半分に過ぎず、支援の砲兵の展開も間に合わないことが判明した。また攻撃開始直前には、フイ高地が全滅(実際は撤退)したことが知らされ、辻は「何たる幸先の悪さ」と考えたが、悪いのは幸先ではなく、第6軍や第23師団が初めから戦況や敵状を無視して立てた無理な作戦計画そのものであった。 前線の指揮官や下士官の中にはこの攻撃が無茶ということは十分に認識した者も多く、第72連隊の平塚少尉が小倉第2大隊長へ「このままやったら全滅ですよ」と話しかけると、小倉は「おれもそう思う」と返事をしている。攻撃は9時に開始となったが、戦車を含む重武装の第57狙撃師団第80連隊が守る780高地(ヤレ高地)に向かって白昼堂々と4-5 kmも突進するという近代戦では考えられない作戦で、突撃を開始すると、ソ連軍の圧倒的な火力で日本兵はバタバタと倒された。それでも小林の右翼攻撃隊がソ連軍陣地に突入したのを、第23師団司令部は確認している。第23師団司令部も攻撃隊に続いて前進しようとしたが、ソ連軍戦闘機数十機が来襲し、その機銃掃射によりたちまち前進は停止させられて、戦闘機が去ると次は戦車10輌が司令部目指して突進してきた。師団長の小松原以下全員が覚悟を決めたとき、野砲1中隊が司令部を援護してソ連軍戦車を直接照準で砲撃して、たちまち4輌を撃破して撃退し小松原らは九死に一生を得た。 司令部が釘付けとなっていたとき、ようやく第一線との連絡がついたが「右一線は敵陣地に突入、戦車に蹂躙されて全滅に近い。小林旅団長行方不明、酒井連隊長重傷。大中隊長殆ど死傷」という悲報が入ってきた。小松原は小林を信頼しており「小林少将さえ健在なら必ず成功する」と期待を寄せていただけに小林の悲報を聞いて顔面蒼白となった。8月24日のわずか1日で、第72連隊の損害は戦死324名、負傷377名にも上り、死傷率50%で連隊は壊滅状態に陥っていた。一方攻撃を受けたソ連軍の損害は、公式戦史で死傷285名、戦車4両撃破と、日本軍の損害の3分の1とされているが、この公式戦史は、実際に被った損害の約3分の1の記述とグラスノスチによるソ連軍公文書解析で判明しており、実際は日本軍と同じぐらいの損害を被っていた可能性もある。 右翼攻撃隊の戦況は司令部からは目視できなかったが、中隊長に率いられた40名の将兵が命からがら撤退してきたのを確認し、戦線が崩壊しつつあることが認識できた。その中隊長は司令部にいた辻を見つけると「参謀殿!右一線は全滅しました」と報告してきた。辻はその中隊長を「旅団長や連隊長や軍旗をほったらかして、それでも日本の軍人か」と叱責すると、自らその中隊長らを率いて小林らを救出することとした。夜陰の中炎上しているソ連軍戦車を目印に辻らは前線に到着したが、右翼攻撃隊はすでに壊滅状態となっていた。辻はようやく、負傷している連隊長の酒井を見つけたが、酒井は「御覧の通りです。引き続いて攻撃をやれとの御命令ならば、明日もう一度突撃しますが恐らく1人も残りますまい」と報告してきた。小松原は明朝の攻撃を計画していたが、とてもそういう状況にはないことを認識した辻は「本夜まず全部の死傷者を後送した後、兵力をまとめて明払暁、師団司令部位置に集結すべし」という撤退の師団命令を独断で出した。辻の命令により、右翼攻撃隊は負傷者を収容しながら後退したが、収容された負傷者の中には、ソ連軍戦車に両足を蹂躙される重傷を負った小林も含まれていた。辻には師団命令を出す権限はなく、越権行為であったが、小松原からその判断を感謝され不問にされている。辻から独断の撤退命令を受けた酒井は、その後に収容された病院で責任を感じて自決している。 同時に攻撃した左翼の森田兵団も同様な展開で撃退された。小松原は攻撃を諦めず翌25日も攻撃を続行したが、今度は歩兵第28連隊にも5割近い損害が生じ、『ノモンハンでもっとも拙劣な作戦』と酷評された反転攻勢は大失敗に終わった。この攻勢の失敗は単に日本軍が大損害を受けたに留まらず、戦力を抜かれて無駄に消耗した日本軍の防衛線を崩壊させるきっかけとなってしまった。シュルテンは後にこの日本軍の攻撃を「大喜びでおびき寄せたかった場所」に日本軍が自らはまりこんできたと評した。
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日本軍の反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 13:53 UTC 版)
事件後、日本軍奈良部隊は7月30日午前10時40分頃、北平(北京)西北地区で逃走中の冀東政府保安隊約300人を攻撃した。 8月2日午前10時頃、日本軍飛行隊は、通州より東方約8キロメートルの燕郊鎮に集結していた冀東政府保安隊および29軍敗残兵約200人を爆撃した。
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