日本軍の反撃とは? わかりやすく解説

日本軍の反撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 18:57 UTC 版)

トラック島空襲」の記事における「日本軍の反撃」の解説

2月16日時点トラック泊地所在航空兵力は、陸攻20艦戦39艦爆45夜間戦闘機9、天山28九七艦攻7、水上機26合計174であったという。2月17日午前9時時点のトラック泊地稼動機は、戦闘機20夜間戦闘機2、天山11九七艦攻5、九九艦爆4、水上戦闘機9という記録がある。トラック大空襲連絡をうけた連合艦隊司令部横須賀所在)は、同日1101分(日本時間)に、第十一航空艦隊陸攻艦攻全力トラック泊地派遣し内南洋部隊指揮官第四艦隊司令長官)の指揮を受けるよう発令した16時22分、連合艦隊十一航艦と第二航空戦隊移動可能航空兵全力十三航艦の七〇五空と三三一空を内南洋部隊編入し第六十一航空戦隊のマリアナ進出発令した。そして内南洋所在の全陸上機第一航空艦隊司令長官角田覚治海軍中将)が指揮するよう命じた。この発令時による航空機移動量は、南西方面から約100機、ラバウルから100機、21日に一航艦から170~180機であった偵察機報告をうけて、第四艦隊午前9時6分敵情報告すると共に艦攻12艦爆4を以て攻撃準備中」と発信した実際は五〇一空の戦闘爆撃機(250kg爆弾装備した零戦)5、五五二空の九九艦爆小数機による昼間攻撃敢行したのみ同日夜、日本軍は春島に残存する九七艦攻4機をアメリカ艦隊攻撃のため出撃させた。これはラバウル進出予定第二航空戦隊所属機か、五八二空所属機とされるまた、テニアン第二十二航空戦隊司令官陸上攻撃機による薄暮攻撃命じ七五三空と七五五空の陸攻7機(うち触接役2機)を出撃させた。陸攻隊は14時過ぎにテニアン離陸する17日の晩の月齢23日だったが、のある海域だと下弦の月隠れてしまっていた。各隊は敵を求めばらばらに行動したが、このうち七五五空の陸攻1機が20時30分雷撃おこない巡洋艦1隻撃沈報告した実際には、空母イントレピッド魚雷1本が命中していた。イントレピッド右舷艦尾破壊されて舵が停止したため、6隻の護衛つけられエニウェトク後退した。この作戦におけるアメリカ軍最大損害である。 一方アメリカ軍空母エンタープライズからTBFアベンジャー12機が夜間雷撃空母搭載機では初めて)の為に発進し艦船夜間攻撃加えた。このときの使用機レーダー試験的に装備したTBF-1Cであった翌日迎撃備え二〇四空では機体修理整備実施して零戦6機が使用可能となり、爆装して空母攻撃する計画立てたが、昼間の空襲機体の側に落とされていた時限爆弾爆発したため、全機飛行不能となり計画中止した17日日本軍損害は、未帰還67地上撃破96機にのぼった

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日本軍の反撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 05:39 UTC 版)

ミンドロ島の戦い」の記事における「日本軍の反撃」の解説

礼号作戦」も参照 日本海軍は、ミンドロ島利用妨害するため、重巡足柄及び軽巡大淀駆逐艦6隻の艦隊をマンガリン湾に差し向けて12月26日飛行場及び停泊中の船団への攻撃行った礼号作戦)。輸送船1隻を沈めるなどの戦果挙げたが、基地利用阻止するほどには達しなかった。日本陸軍航空隊による空襲かなりの成果挙げたが、決定的ではなかった。 ミンドロ島飛行場稼働することでフィリピン周辺制空権が完全に奪われることを恐れた大本営連合艦隊第4航空軍は、逆上作戦の実施第14方面軍に対して要求した。しかし、すでにルソン島での持久戦方針固めていた第14方面軍は、戦力分散につながる逆上陸実施にすぐには同意しなかった。最終的には、第8師団歩兵第17連隊から抽出した斬り込み113名のみが、飛行場への妨害攻撃任務送られることになった幡谷中尉指揮する斬り込み隊は、船舶工兵24連隊大発動艇により12月28日ルソン島出発し1945年1月5日ミンドロ島東部上陸した近在アメリカ軍交戦の後に、斬り込み隊は乗船して撤収した1月18日斬り込み隊はミンドロ島南部再上陸し、2月23日サンホセ飛行場付近まで進出したが、その後の戦闘により壊滅した

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日本軍の反撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 08:31 UTC 版)

マーシャル諸島沖航空戦」の記事における「日本軍の反撃」の解説

日本側の索敵機はルオット、ウォッジェ、マロエラップから索敵機を発進させ第50任務部隊を捜し求め7時ごろにルオットからの索敵機がルオット45度170海里地点で第50任務部隊発見する。これより先の6時30分、第531航空隊の「天山」6機(松崎三男大尉)がウォッジェを発進し、マロエラップで魚雷装備の上7時40分から8時30分にかけて第50任務部隊攻撃へと向かったが、9時40以降消息途絶えた。 パウナル少将正午から第二次攻撃を行う予定であったが、搭乗員疲労と日本軍の反撃を警戒して、「ヨークタウン」からのウォッジェ攻撃29機を発進させた後、避退行動移った夕刻17時10分、第752航空隊索敵機はビカール環礁近海で第50任務部隊発見16時20分にマロエラップを発進し敵影を捜し求めた野中五郎少佐指揮官とする一式陸上攻撃機9機は、18時ごろに第50任務部隊発見して攻撃移り空母巡洋艦各1隻撃沈空母1隻撃破戦果報じた。2機が損傷したが、全機帰還した一方エニウェトク環礁からルオット進出予定だった第753航空隊一式陸攻8機も午後になってルオット到着して間もなく攻撃向かい20時30分頃に第50任務部隊発見して攻撃行い空母1隻と巡洋艦2隻の撃沈報じた日本側は、2機が未帰還となったアメリカ側記録では、空母レキシントン」が魚雷1本を艦尾受けて中破したほか、軽巡モービル」は自艦の高角砲によって機銃座を誤射し、駆逐艦テイラー」も軽巡オークランド」に誤射されて損傷した。第50任務部隊12月9日真珠湾帰投した。

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日本軍の反撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 22:57 UTC 版)

フィリピンの戦い (1944-1945年)」の記事における「日本軍の反撃」の解説

大本営海軍部が発表した台湾沖航空戦レイテ沖海戦誇大戦果信じた陸軍部は、「レイテ島決戦」に戦略転換図りレイテ島増援送った多号作戦)。この輸送兵員物資航空機により攻撃されやすい海上長時間曝露することになるが、アメリカ機動部隊壊滅した信じた大本営陸軍部は意に介さなかった。しかし、(壊滅したはずの)アメリカ機動部隊などの空襲を受け、第1師団だけは、航空援護もあって11月9日までに無事に上陸することができたものの、そのほか第26師団第68旅団などはいずれ物資過半海へ沈んだ。そのため、ガダルカナル島の戦い同じく物資著しく欠乏した戦闘となった第1師団第26師団などが到着後の11月20日頃の日本軍兵力は、人員約43000名、馬約650頭、軍用車両190台だった。 第1師団は、1944年11月1日レイテ島西岸オルモック上陸し3日にカボカン方面で米第24師団遭遇して戦闘になったアメリカ軍は、途中11月24日に第32師団交替して攻撃続け12月5日から総攻撃行った第1師団第102師団一部とともに悪戦苦闘し12月21日西方への撤退開始した日本軍は、第26師団第16師団残存部隊に加え薫空挺隊高千穂空挺隊連合軍飛行場突入させて反撃試みた。だが、第26師団がブラウエンまであと10 kmまで迫った時点で、西海岸のイピルにアメリカ軍上陸したため、攻撃中止した

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日本軍の反撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)

ノモンハン事件」の記事における「日本軍の反撃」の解説

第6軍ソ連軍猛攻撃の中で、反転攻勢に出るべく準備進めていた。小松原増援第7師団森田旅団できるだけ主力引き付けている間に、第23師団主力短距離ソ連軍側面回り込むという作戦主張したが、安全策をとって東南東大きく迂回してハルハ河まで追撃するとした第6軍案と真っ向から対立し8月21日丸1日浪費してしまった。22日には砲兵団の畑少将加わって激論交わしたが、結局上部組織である第6軍の案が採用され23日各部隊伝達された。 作戦計画によれば小林少将率い歩兵7172の諸連隊併せて右翼(北)を進み森田少将率い歩兵2628連隊左翼(北)を進撃しソ連軍主力南方から日本軍包囲しようとしていた南方軍逆に包囲する作戦立てた攻撃開始は翌24日決められた。攻撃計画決定した23日午後に関東軍司令部から派遣された辻が、道中ソ連軍戦闘機砲撃により命からがら前線司令部にたどり着いたが、司令官洲はウィスキー飲んでいたところで、辻に「君一杯どうかね、明日前祝に」と語りかけるなど余裕しゃくしゃくであった。翌24日になって攻撃参加予定部隊はすでにソ連軍猛攻防戦一方で攻撃開始前に間に合った部隊歩兵第72連隊と第28連隊合計5個大隊であり、予定の9個大隊半分過ぎず支援の砲兵の展開も間に合わないことが判明した。また攻撃開始直前には、フイ高地全滅実際撤退したことが知らされ、辻は「何たる幸先悪さ」と考えたが、悪いのは幸先ではなく第6軍第23師団初めから戦況敵状無視して立てた理な作戦計画そのものであった前線指揮官下士官中にはこの攻撃が無ということは十分に認識した者も多く第72連隊平塚少尉小倉第2大隊長へ「このままやったら全滅ですよ」と話しかけると、小倉は「おれもそう思う」と返事をしている。攻撃は9時に開始となったが、戦車を含む重武装の第57狙撃師団80連隊が守る780高地ヤレ高地)に向かって白昼堂々4-5 km突進するという近代戦では考えられない作戦で、突撃開始すると、ソ連軍圧倒的な火力日本兵バタバタ倒された。それでも小林右翼攻撃隊がソ連軍陣地突入したのを、第23師団司令部確認している。第23師団司令部攻撃隊に続いて前進しようとしたが、ソ連軍戦闘機数十機が来襲し、その機銃掃射によりたちまち前進停止させられて、戦闘機が去ると次は戦車10輌が司令部目指し突進してきた。師団長小松原以下全員覚悟決めたとき、野砲1中隊司令部援護しソ連軍戦車直接照準砲撃して、たちまち4輌を撃破し撃退し小松原らは九死に一生得た司令部釘付けとなっていたとき、ようやく第一線との連絡がついたが「右一線敵陣地に突入戦車蹂躙され全滅に近い。小林旅団長行方不明酒井連隊長重傷大中隊長殆ど死傷」という悲報入ってきた。小松原小林信頼しており「小林少将さえ健在なら必ず成功する」と期待寄せていただけ小林悲報聞いて顔面蒼白となった8月24日のわずか1日で、第72連隊損害戦死324名、負傷377名にも上り死傷50%で連隊壊滅状態に陥っていた。一方攻撃受けたソ連軍損害は、公式戦史で死傷285名、戦車4両撃破と、日本軍の損害3分の1とされているが、この公式戦史は、実際に被った損害の約3分の1記述グラスノスチによるソ連軍公文書解析判明しており、実際日本軍と同じぐらいの損害被っていた可能性もある。 右翼攻撃隊の戦況司令部からは目視できなかったが、中隊長率いられ40名の将兵命からがら撤退してきたのを確認し戦線崩壊しつつあることが認識できた。その中隊長司令部にいた辻を見つけると「参謀殿!右一線全滅しました」と報告してきた。辻はその中隊長を「旅団長連隊長軍旗ほったらかして、それでも日本軍人か」と叱責すると、自らその中隊長らを率いて小林らを救出することとした。夜陰の中炎上しているソ連軍戦車目印に辻らは前線到着したが、右翼攻撃隊はすでに壊滅状態となっていた。辻はようやく、負傷している連隊長酒井見つけたが、酒井は「御覧通りです。引き続いて攻撃をやれとの御命令ならば、明日も一度突撃しますが恐らく1人残りますまい」と報告してきた。小松原明朝攻撃計画していたが、とてもそういう状況にはないことを認識した辻は「本夜まず全部死傷者後送した後、兵力まとめて払暁師団司令部位置集結すべし」という撤退師団命令独断出した。辻の命令により、右翼攻撃隊は負傷者収容しながら後退したが、収容され負傷者中にはソ連軍戦車両足蹂躙され重傷負った小林含まれていた。辻には師団命令を出す権限はなく、越権行為であったが、小松原からその判断感謝され不問にされている。辻から独断撤退命令受けた酒井は、その後収容され病院責任感じて自決している。 同時に攻撃した左翼森田兵団同様な展開で撃退された。小松原攻撃諦めず25日攻撃続行したが、今度歩兵第28連隊にも5割近い損害生じ、『ノモンハンでもっとも拙劣な作戦』と酷評され反転攻勢大失敗終わった。この攻勢失敗は単に日本軍大損害を受けた留まらず戦力抜かれ無駄に消耗した日本軍防衛線を崩壊させるきっかけとなってしまった。シュルテンは後にこの日本軍攻撃を「大喜びでおびき寄せたかった場所」に日本軍が自らはまりこんできたと評した

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日本軍の反撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 13:53 UTC 版)

通州事件」の記事における「日本軍の反撃」の解説

事件後、日本軍奈良部隊は7月30日午前10時40分頃、北平北京西北地区逃走中冀東政府保安隊300人を攻撃した8月2日午前10時頃、日本軍飛行隊は、通州より東方約8キロメートルの燕郊鎮に集結していた冀東政府保安隊および29敗残兵200人を爆撃した

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