日本軍の北部仏印進出とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 日本軍の北部仏印進出の意味・解説 

日本軍の北部仏印進出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)

第二次世界大戦」の記事における「日本軍の北部仏印進出」の解説

フランスでは1940年入りドイツ猛攻が続く中、フィリップ・ペタンマキシム・ウェイガン陸軍総司令官と共に対独講和主張した6月21日フランスドイツ休戦申し込み、翌6月17日独仏休戦協定成立したその後7月10日ペタン率いる親独のヴィシー政権成立した。 これを受けて6月19日日本側はフランス領インドシナ政府対し仏印ルート閉鎖について24時間以内回答するよう要求した当時フランス領インドシナ総督ジョルジュ・カトルー(英語版将軍は、シャルル・アルセーヌ=アンリ駐日フランス大使助言を受け、本国政府請訓せずに独断仏印ルート閉鎖と、日本側の軍事顧問団西原機関)の受け入れ行ったヴィシー政権はこの決断をよしとせず、カトルーを解任してジャン・ドクー(英語版提督後任総督とした。しかしカトルーの行った日本との交渉撤回されず、むしろヴィシー政権はこれを進め日本の外務大臣松岡洋右アルセーヌアンリ大使との間で日本フランス協力について協議開始された。8月末には交渉妥結し松岡アンリ協定締結された。その後9月22日日本フランス領インドシナ総督政府と「西原マルタン協定」を締結し、これを受けて平和裏日本軍北部仏印進駐した(仏印進駐)。 また、フランス海軍船舶武装解除の上サイゴン係留されることになったが、日本政府仏印植民地政府との間で遊休フランス商船一括借り上げ交渉開始していた。フランス側のドクー総督は、イギリス海軍による拿捕のおそれや、仏印マダガスカル島上海との自国航路維持必要なこと、フランス海軍徴用中であることなどを理由難色示し交渉1942年まで持ち越すことになった。 なお、同様に仏印領内残ったフランス船籍仏印船籍商船は、1941年時点500総トン上のものが27隻(計10万総トン)、うち10隻は4000総トン上のであった

※この「日本軍の北部仏印進出」の解説は、「第二次世界大戦」の解説の一部です。
「日本軍の北部仏印進出」を含む「第二次世界大戦」の記事については、「第二次世界大戦」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「日本軍の北部仏印進出」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日本軍の北部仏印進出」の関連用語

日本軍の北部仏印進出のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



日本軍の北部仏印進出のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの第二次世界大戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS