日本軍の作戦計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
辻の計画では突撃部隊でハルハ河を渡河し西岸に渡り、敵軍の後方に進出し、同時に主力部隊が敵を正面に釘づけにするためハルハ河東岸にいる敵軍を攻撃、そうして後方に進出した突撃部隊と主力部隊で敵を殲滅するという作戦であった。この作戦のために小松原に任された戦力は第23師団、第7師団から抽出した歩兵2個連隊、戦車2個連隊に砲兵・工兵・満州騎兵で、兵力は日本軍21,953名(輸送・補給等の後方部隊も含む)、満州軍2,000名、砲124門(速射砲32門)戦車73輌、装甲車19輌であった。特に戦車第3連隊と第4連隊は日本軍初となる機械化部隊独立混成第1旅団が前身の日本軍の主力戦車部隊となる第1戦車団の中核部隊で、これほど多くの戦車がまとまって作戦に投入されるのは日本陸軍史上初めてであった。 ハルハ河を渡河して敵軍の背後に回り込むのは第1戦車団を主力とする機械化混成部隊で第1戦車団長の安岡正臣中将が率いた。編成は戦車第3連隊と戦車第4連隊、歩兵第64連隊、自動車化部隊の歩兵第28連隊第2大隊、独立野砲第1連隊、砲兵第13連隊第1第2大隊、工兵第24連隊、配属高射砲3個中隊の合計6,000名(安岡支隊と呼称)、正面攻撃する小松原直率の部隊は歩兵第71連隊、第72連隊第1第2大隊、砲兵第13連隊第3大隊、工兵第23連隊、歩兵第26連隊、捜索隊、配属高射砲9個中隊の合計7,500名(小松原兵団もしくは指揮官小林恒一少将から小林兵団と呼称)、それで満州軍1,700名と通信隊、衛生隊等非戦闘要員を含めた総兵力は16,670名になった。関東軍参謀服部はこの作戦を「鶏を割くに牛刀を以ってせんことを欲したるもの」としソ連軍を『鶏』程度の戦力と考えていたが、『ジューコフ最終報告書』によれば、ソ連軍歩兵12,547名、戦車186輌、装甲車266輌、火砲109門、航空機360機と兵員数で少し日本軍が上回っていたが、戦車・装甲車ではソ連軍が圧倒しており、後に歩兵も火砲も増援によりソ連軍が圧倒することとなった。 当初の作戦では、ハルハ河に橋を架けて戦車を含む安岡支隊が西岸に渡り、敵の背後から包囲攻撃をかけることとされた。しかし、第23師団が持っていた架橋用資材は教育用として熊本から携行してきた80 m分の乙式軽渡河材料と、漕渡用の折畳船20隻しかなかったため、戦車を渡すことができないことが判明した。水深が1 m以下なら戦車がそのまま渡河することもできたが、水深は深かった上に河底の土壌の硬度などの情報もなかった。そこで様々な対策が考えられ、中には戦車数台を橋の支柱とする案や、ソ連軍の機材を奪うなどの奇策も考案されたが、どの対策も実現性に乏しかった。渡河資材に不安があることは師団長の小松原は十分に認識しており、渡河作戦を強硬に主張していた辻が渋る小松原を「師団長が独断でやれんようなら、関東軍司令官の名をもって軍命令を出す」と説き伏せたものであったが、結局、小松原の心配通りの結末となってしまった。6月30日に第23師団司令部が置かれていた将軍廟で小松原と辻らが協議した結果、小松原兵団がハルハ河を渡河し、西岸に渡って退路を遮断し、東岸に残った安岡支隊が北から攻撃をかけて南下し、敵をハイラースティーン(ホルステン)川の岸に追い詰めて殲滅する作戦に、作戦開始直前になって変更せざるを得なくなった。
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