日本軍の上陸
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1941年12月8日に日本が米英に宣戦布告し太平洋戦争が勃発すると、南方作戦の一環として第14軍がフィリピンに上陸し、1942年1月2日に日本軍はマニラを占領した。その後、4月にバターン半島、5月にコレヒドール島の米比軍を降伏させ、翌5月7日にアメリカ極東陸軍(ユサフェ)の全軍が降伏を宣言した。 既にダグラス・マッカーサーと共にオーストラリアに逃亡していたマヌエル・ケソン大統領は、その後アメリカ合衆国に渡ってワシントンにて亡命政府を建てた。日本は従来までの統治機構を出来る限り活用しようとしたが、政治的決定の多くは日本に委ねられていた。
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日本軍の上陸
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8月24日、攻略部隊(呉5特・佐5特の一部・第10設営隊)は、輸送船「南海丸」と「畿内丸」に乗船し、第18戦隊(軽巡「天龍」「龍田」)ほか駆逐艦5隻(「浦風」「谷風」「浜風」等)と駆潜艇2隻の護衛の下で出撃した。船団はラビの連合軍航空隊に発見されて空襲を受けたが、損害は軽微であった。翌8月25日夜、船団はミルン湾に到着し、抵抗を受けることなく上陸したが、誤って予定地点から10km以上も東にずれた飛行場から遠い位置への上陸となってしまった。 橋頭堡の防衛を佐5特と設営隊に任せ、上陸部隊指揮官の林中佐は呉5特を率いてただちに飛行場への夜襲を実行しようとした。しかしながら、一帯は沼沢地のために夜明けまでに1kmほどしか前進できず、飛行場には到達できなかった。夜襲支援のために「天龍」以下の護衛艦隊が艦砲射撃を行ったが、効果は確認できなかった。空襲を避けるため、明け方までに船団と護衛艦隊は退避した。日本軍の上陸に気がついた連合軍は、8月26日早朝から航空部隊を出撃させて橋頭堡を攻撃した。これにより集積物資は全損し、海上機動用に残された大発も全滅してしまった。日中にはオーストラリア軍は第7旅団の第61大隊による反撃を行い、日本軍の斥候部隊を撃破したが、30名以上の損害を受けて6時間後には後退した。 佐5特主力部隊(353名)は、別動隊として8月24日早朝に大発7隻に分乗してブナを出撃したが、8月25日に途中のグッドイナフ島で仮泊中に空襲により大発が全て使用不能となってしまい行動することができなくなり、通信機も破損したため連絡ができず消息不明になってしまった。部隊の所在がわかったのはラビでの戦闘が終了した後の9月9日であった。
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