日本軍の不手際の原因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/19 06:34 UTC 版)
日本軍は当時、第38任務部隊を10月6日以降見失っていた。日本軍の各航空基地は大規模な哨戒活動をしていたが、アメリカ軍は日本軍の哨戒機をレーダーで捕捉してことごとく撃墜していた。沖縄南西沖には当時台風が北上していたため、日本軍首脳部は未帰還の哨戒機が多いのは悪天候が原因と安易に判断してしまった。 さらに第32軍は10月10日に第32軍首脳部を集めての大掛かりな図上演習を予定しており、前日の10月9日は各地の司令官たちが那覇の料亭に集められて宴会を開いていた。そのため、指揮官不在の各部隊は有効に対処することができなかった。また、この日の図上演習が兵士には単に「演習」としか知らされていなかったため、友軍の高射砲の応戦などを見ても「本格的な演習をしている」と受け止めた兵士が多く、応戦が遅れる原因となった。住民にも演習と誤解する者があった。 せっかくのレーダーによる攻撃隊の探知も、レーダーの故障だろうと思われて有効に活用されなかった。防空監視隊の報告もデマ扱いされた。 沖縄空襲を知らせる電文は10日の午前7時に発信されたが、日吉の連合艦隊司令部に到達したのは1時間半も後であった。既述のように連合艦隊司令長官の豊田副武大将はフィリピン方面への出張で台湾に滞在中で、参謀長の草鹿龍之介中将が代わりに指揮を執るはずであったが、豊田大将も台湾から別に矛盾する命令を出し、混乱を招いた。
※この「日本軍の不手際の原因」の解説は、「十・十空襲」の解説の一部です。
「日本軍の不手際の原因」を含む「十・十空襲」の記事については、「十・十空襲」の概要を参照ください。
- 日本軍の不手際の原因のページへのリンク