兵棋演習
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兵棋演習(へいぎえんしゅう、英: War game, Military Simulation)は、状況を図上において想定した上で作戦行動を再現して行う軍事研究である。
日本において、自衛隊は「指揮所演習(Command Post EXercize, CPX[1])」と呼称し、報道される事もあるが、日本軍時代から多用されてきた「兵棋演習」の表現が用いられる場合もある。また「図上演習(War game[2])」、「机上演習(Table Top eXercise, TTX)」という言葉も存在し、軍事分野の訳語ではしばしば混同されるが、英語において異なるため、本項では兵棋演習という表現を用いる。
概説
兵棋演習では2個以上の対抗勢力による作戦を研究するために、地形や敵情についての定量的なデータを踏まえながら確率を活用しつつ状況を再現する。参謀本部や軍令部(ないし相当の機関)或いは実戦部隊において、作戦計画の立案や分析などの研究のために行われている。また軍学校では学生に対する戦術学の応用教育のために用いられる。1823年にフォン・ライスヴィッツが原型を構築し、日本では明治22年に一学科として位置づけられた。
作戦領域となる地形図、彼我の部隊を示す赤と青の軍隊符号、部隊の運動や方向などを描き込む際に用いる製図用具、偶発的な事柄の勝敗を決めるサイコロ、火力の効力を規定する火効表などが必要な物品であったが、現代ではコンピュータなどの電子機器、ソフトウェアの支援を受けて遂行される。
兵棋演習では演習員だけでなく、統裁官が必要となる。演習は演習員が逐次変化する状況を判断した上で決定を下すという形で進行する。その際に必要な審判は、予め定めた数値的な審判基準と統裁官の判断に基づいて行われる。統裁官は演習の進行状況を踏まえたあらゆる統裁と審判の権限を持っており、演習員がその審判に反することはできない。また戦術教育としての兵棋演習の終了時には統裁官によって各演習員の状況判断と決心が講評される。従って統裁官には実践的かつ客観的な経験と判断が求められるために、通常は古参の高級将校が任せられる。
また兵棋演習は概ね軍事的な状況に着目して行われるが、政略的な状況を組み込んで行われる場合(Politico-military gaming、Political-military Simulation、直訳では政治軍事演習)もある。この場合は軍事の他政治、外交、経済、心理、社会、技術およびその他の要因の相互作用を含んだ情勢の模擬研究として設定され、戦略レベル以上の高度な情勢についての研究が行われる。
チェスター・ニミッツは第二次大戦時の対日戦は海軍大学校で学んだ兵棋演習の再演であり、予期できなかったのは神風攻撃のみだったと語っている[3]。一方で、アーレイ・バークは兵棋演習では実戦における精神的重圧が再現できないことを問題視している[3]。
訓練用のシナリオとして様々なパターンが考案されているが、実在の国家を標的にすると外部に流失した際に外交問題に発展することもあるため、あえて敵をゾンビに設定するなどの配慮も行われている[4]。
歴史



兵棋演習の起源は定かではないが、前近代において図上に軍事的状況を再現して研究するものとして古代インドのチャトランガやヨーロッパでのチェスがある。このような盤上遊戯には、任務の達成のために戦力の測定や地形効果の認識、戦術案の検討などを含めた軍事的思考が求められるが、具体的な野戦の研究にとってはあまりに内容が抽象的であった。
17世紀中ごろにチェスの枠組みに軍事に関する詳細な取り決めが導入され、軍事研究の道具として初めて精密化されるようになった。軍事史においてこのように体系化された最初の兵棋演習の記録は1664年のドイツのウルムにおいて実施された『王者の遊戯』(Königspiel)である。これはチェスを基本にしながらより大規模な方眼状の盤上と30個の駒を使用したものであり、それらの駒には国王や諸々の階級を含めた部隊指揮官、兵卒などと命名されていた。このような兵棋演習は「戦争チェス」(War chess)と呼ばれ、活用することで軍事的能力を向上させることが可能であった。
1797年にドイツ・ブラウンシュヴァイク出身の軍事学者ゲオルク・ヴェントゥリーニは現代の兵棋演習につながる新たなシステムを構築した。これは旧来の「戦争チェス」を参考にしながら内容を発展させたものであり、この作品は『応用戦術と戦争科学のための数学的体系』と命名された。これにはまだ四角形の方眼が使用されていたが、その方眼の個数は3600個に拡大されながらマイルで区切られていた。それぞれの升目には地形効果が色で示され、架空の地形ではなく、フランスとベルギーの国境における現実の地形を用いていた。兵士のほか火砲や集積所・橋などをかたどった駒が採用され、その進め方もチェスのルールではなく、実際の諸部隊の動きに則した方式へ改められていた。さらに19世紀にゲオルク・フォン・ライスヴィッツによって兵棋演習に砂盤を導入し、森林などの地形をより立体的に再現しながら部隊の運用を研究する手法を開発した。部隊は立方体に対応する軍隊符号を与えて識別するようにした。ライスヴィッツの手法は「戦争ゲーム」(Kriegsspiel、War game)として当時のプロイセン軍に認知されるようになり、その後の兵棋演習の基本となった。そしてプロイセンの軍事技術が各国で研究され、あるいは導入されていくにつれて、兵棋演習も各国へ伝播していった。
第二次大戦後のアメリカにおいて、一般向けの娯楽として兵棋演習を簡略化したウォー・シミュレーションゲームが登場し、コンピュータゲーム化もされるなど広く普及している。
現代は軍事研究として行われることはないが戦略的思考のトレーニングになるため、欧米の軍隊では士官学校、駐屯地、艦船内にチェスクラブが存在し趣味としてたしなむ者も多い。特にアメリカ海軍の空母ではチェス大会が定期的に開催されている。日本では防衛大学校に棋道部(囲碁と将棋)が存在する。
脚注
- ^ 令和4年版防衛白書(英語版)p.401 2023年6月4日閲覧
- ^ 図上演習とは - 海上自衛隊幹部学校
- ^ a b 図上演習の意義 - 海上自衛隊幹部学校
- ^ “米国防総省、「ゾンビ」襲来の対応策を策定していた”. CNN. (2014年5月17日) 2019年7月12日閲覧。
参考文献
- 飯田耕司『改訂 軍事ORの理論』三恵社、2010年
- 実松譲「第三章 真珠湾作戦と海大」『海軍大学教育』光人社NF文庫 ISBN 4-7698-2014-3 (1993年、初出1975年)
- 日本海軍で行なわれていた図上演習の概要が説明されている。
- 猪瀬直樹『昭和16年 夏の敗戦』ISBN 4-16-743101-7 (初出1983年、1986年文庫化)
- 『陸戦研究』陸戦学会
- 自衛隊関係者向けの研究誌。毎号様々な状況を想定した図上演習を掲載している。
- Ardant Du Picq, C. Battle Studies: Ancient and Modern Battle. New York: Macmillan. 1921.
- Bonder, S. Systems Analysis: A Purely Intellectual Activity. in Military Review, February, 1921. pp. 14-23.
- Brewer, G. D., and M. Shubik. The War Game: A Critique of Military Problem Solving. Cambridge, Massachusetts: Havard University Press. 1979.
- Dupuy, T. N. Numbers, Prediction and War: Using History to Evaluate Combat Factors and Predict Outcome of Battles. McLean, Va.: Hero Books. 1985.
- Honig, J., et al. Reveiw of Selected Army Models. Washington, D.C.: U.S. Department of the Army. 1971.
- Huber, R. K., K. Niemeyer, and H. S. Hofman, eds. Operational Research Games for Defense. Munich: R. Oldenbourg Verlag Gmbh. 1979.
- Lanchester, F. W. Aircraft in Warfare: The Dawn of the Fourth Arm. London: Constable.
- Organization of the Joint Chiefs of Staff. Catalog of War Gaming and Military Simulation Models. 12th ed. Force Structure, Resource, and Assessment Directorate. Washington, D.C. 1991.
- Peter P. Perla. The Art of Wargaming: A Guide for Professionals and Hobbyists. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press.
- Shubik, M., and G. D. Brewer. Models, Simulations, and Games: A Survey. Report R-1060-ARPA/RC. Santa Monica, Calif.: RAND Corp. 1972.
- Stockfisch, J. A. 1975. Models, Data and War: A Critique of the Study of Conventional Forces. R-1526-PR. Santa Monica, Calif.: RAND Corp. 1975.
- U.S. Army War College. McClintic Theater Model, Volume 1: War Game Director's Manual. Pennsylvania: U.S. Army War College, Aug. 1981.
- Weiss, H. K. Lanchester-Type Models of Warfare. Proceedings of the First International Conference on Operational Research, ed. M. Davies, R. T. Edison, and T. Page. Baltimore, Md.: Operational Research Society of America.
関連項目
- オペレーションズ・リサーチ - ウォー・シミュレーションゲーム - シミュレーション
- ランチェスターの法則 - オシポフ方程式 - 軍隊符号 - 決心
- 災害図上訓練
- 三矢研究
- 総力戦研究所
- シリアスゲーム
- 日米共同方面隊指揮所演習
外部リンク
図上演習
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 23:10 UTC 版)
4月28日から1週間かけて戦艦大和で「連合艦隊第一段階作戦戦訓研究会」と「第二段作戦図上演習」が行われた。そのうち、5月1日から4日間が第二段作戦の図上演習で、ハワイ攻略まで行われた。実演は5月3日午後に終わり、3日夜と4日午前にその研究会を行い、4日午後からは第二期作戦に関する打ち合わせが行われた。図上演習では、連合艦隊参謀長宇垣纏中将が統監兼審判長兼青軍(日本軍)長官を務め、青軍の各部隊は該当部隊の幕僚が務め、赤軍(アメリカ軍)指揮官は松田千秋大佐(戦艦日向艦長)が務めた。 この図上演習において、ミッドウェー攻略作戦の最中に米空母部隊が出現し、艦隊戦闘が行われ、日本の空母に大被害が出て、攻略作戦続行が難しい状況となったが、審判をやり直して被害を減らし、空母を三隻残した状況で続行させた。空母加賀、赤城は爆弾9発命中判定で沈没判定となったものの、宇垣纏連合艦隊参謀長は「9発命中は多すぎる」として爆弾命中3発に修正させ、赤城を復活させたなどである。ミッドウェー島攻略は成功したが、計画期日より一週間遅れ、艦艇の燃料が足りなくなり、一部の駆逐艦は座礁した。宇垣は「連合艦隊はこうならないように作戦を指導する」と明言した。このとき、攻略前に米機動部隊がハワイから出撃してくる可能性はあったのだが、図上演習でアメリカ軍を担当した松田大佐は出撃させることはなかった。 戦訓分科研究会において、連合艦隊司令部の宇垣参謀長は一航艦の草鹿参謀長に対し、「敵に先制空襲を受けたる場合、或は陸上攻撃の際、敵海上部隊より側面をたたかれたる場合如何にする」と尋ねると、草鹿は「かかる事無き様処理する」と答えたため、宇垣が具体的にどうするのかと追及すると、第一航空艦隊(一航艦)の源田参謀が「艦攻に増槽を付したる偵察機を四五〇浬程度まで伸ばし得るもの近く二、三機配当せらるるを以て、これと巡洋艦の零式水偵を使用して側面哨戒に当らしむ。敵に先ぜられたる場合は、現に上空にある戦闘機の外全く策無し」と答えた。そのため宇垣は注意喚起を続け、作戦打ち合わせ前に第一航空艦隊は第一波攻撃隊をミッドウェー島攻撃、第二波攻撃隊は敵艦隊に備えることとした。米機動部隊が現れた際に反撃するために第一航空艦隊(艦攻)の半数は航空魚雷装備となったが、連合艦隊首席参謀黒島亀人大佐は命令として書き込む必要はないと航空参謀佐々木彰中佐に指示した。 研究会で作戦参加者から最も要望されたのが準備が間に合わないことによる作戦延期だった。第二航空戦隊司令官山口多聞少将と一航艦航空参謀源田実中佐は作戦に反対と食いついたが、連合艦隊司令部は聞く耳を持たなかった。4日の研究会で、第一航空艦隊参謀長草鹿少将と第二艦隊参謀長白石萬隆少将も作戦に反対したが、受け入れられず、5日に再び反対しに行ったが、第二段作戦を手交され、反対せずに帰った。第二艦隊長官近藤信竹中将は、米空母がほぼ無傷で残っており、ミッドウェー基地にも敵戦力があることからミッドウェー作戦を中止して、米豪遮断に集中すべきと反対した。しかし、山本長官は奇襲が成功すれば負けないと答えた。また、近藤中将は、ミッドウェー島を占領しても補給が続かないと指摘したが、宇垣参謀長は補給が不可能なら守備隊は施設を破壊して撤退すると答え、攻略後の島の確保、補給については何ら考えられていなかった。占領後、他方面で攻勢を行い、アメリカ軍にミッドウェー奪回の余裕を与えなければ10月のハワイ攻略作戦までミッドウェー島を確保できると考えていたという意見もある。 図上演習と研究会は、ミッドウェー作戦の目的である敵空母捕捉撃滅が難しく、高いリスクを伴う作戦であることを示したが、連合艦隊は問題点を確認することなく作戦を発動した。特に山本長官は「本作戦に異議のある艦長は早速退艦せよ」と強く訓示している。第五艦隊参謀長中澤佑によれば、中澤が作戦会議で機動部隊と連合艦隊主隊の距離が離れすぎていることを指摘すると、黒島は問題ないと発言したという。 5月25日、MI作戦における艦隊戦闘の図上演習・兵棋演習、続いて作戦打ち合わせを行い、関係者の思想統一を図った。しかしそれはミッドウェー攻略の次の日から始まっており、アメリカの主力および空母はハワイ諸島オアフ島の南東450海里から西方に急進中の状態から立ち上がった。ミッドウェー島攻略が奇襲によって成功することが前提で、敵機動部隊が現れることはもはや考慮されていなかったのである。連合艦隊は第一航空艦隊に対し敵艦隊に作戦中備えるように指導しながら、図上演習では攻略の翌日に敵艦隊がハワイにいるものとし、研究会では「敵艦隊が出現すれば、もうけものである」との楽観論さえ出る始末で、敵艦隊出現の可能性を薄く見ており、この空気が各部隊に伝わっていたという意見もある。打ち合わせにおいて第一航空艦隊は、部品が間に合わないので延期を要望し、連合艦隊は一日だけ一航艦の出撃延期を認め、6月4日予定の空襲は5日に変更されたが、7日の攻略は変更されなかったため、空襲前に攻略部隊船団が敵飛行哨戒圏内に入り、発見されやすくなった。しかしこれも連合艦隊はこれを敵艦隊誘出に役立つと楽観視した。 出撃前日の5月26日、赤城において作戦計画の説明と作戦打ち合わせが行われた。山口少将から索敵計画が不十分という意見があった。索敵計画を立案した第一航空艦隊航空参謀吉岡忠一少佐によれば、当時の敵情判断から索敵計画は改めなかったという。吉岡は、攻略作戦中に敵艦隊が現われるとはほとんど考えていなかったのと、索敵を厳重にするのが良いのはわかっていたが、索敵に艦上攻撃機(艦攻)を使うのは攻撃力の低下を意味するので惜しくてできなかったとして、状況判断が甘かったと回想している。 この計画での一航艦司令部の心配は、攻撃開始日が決まっているので奇襲について機転を働かせる余地がなかったことと、空母はアンテナの関係から受信能力が低いため、敵信傍受が不十分で敵情がわかりにくくなることであった。そのため、一航艦参謀長の草鹿少将は、連合艦隊司令部(主に旗艦の戦艦大和)が敵情を把握して作戦指示することを連合艦隊参謀長の宇垣参謀長に取りつけた。土井美二中佐(第八戦隊首席参謀)によれば、草鹿参謀長が「空母はマストが低くて敵信傍受が期待できない。怪しい徴候をつかんだらくれぐれも頼む」と出撃前に何度も確認していたという。
※この「図上演習」の解説は、「ミッドウェー海戦」の解説の一部です。
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