出撃前日
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10月20日朝、大西が副官の門司と朝食をとっていると玉井がやってきて「揃いました」と報告し、隊の名前を「神風特別攻撃隊」と命名するよう願い出て、大西に了承された。大西らが宿舎の中庭に出ると20数名の搭乗員が整列しており、右の先頭に関が立っていた。整列した特攻隊員の前には木箱が置いてあり、大西は木箱の上に立つと午前10時に特攻隊員に向けて「この体当り攻撃隊を神風特別攻撃隊と命名し、四隊をそれぞれ敷島、大和、朝日、山桜と呼ぶ。今の戦況を救えるのは、大臣でも大将でも軍令部総長でもない。それは若い君たちのような純真で気力に満ちた人たちである。みんなは、もう命を捨てた神であるから、何の欲望もないであろう。ただ自分の体当りの戦果の戦果を知ることが出来ないのが心残りであるに違いない。自分は必ずその戦果を上聞に達する。国民に代わって頼む。しっかりやってくれ。」という訓示を行った。 部隊は、本居宣長の大和魂を詠じた古歌「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」の一首より命名された「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」の4隊が編成され、この4隊から漏れた甲十期生は別途「菊水隊」へ編入された。この時点で関はどの隊にも属せず、総指揮官として一種の独立した立場に置かれていた。敷島隊のオリジナルメンバーは中野磐雄(戦三〇一)、谷暢夫(戦三〇五)、山下憲行(戦三〇一)の3名で、いずれも一飛曹だった。訓示の途中、大西の身体は小刻みに震え、顔は蒼白で引きつっていた。同席していた報道班員の日本映画社稲垣浩邦カメラマンも撮影もせずに聞き入っていた。門司も深い感慨を覚えたが、涙が出ることは無く、行くとこまで行ったという突き詰めた感じがしたという。そのあと、大西は特攻隊員一人一人と握手すると再び宿舎の士官室に戻り、神風特攻隊編成命令書の起案を副官の門司に命じたが、門司はそんな命令書を作った経験もなく戸惑っていたので、大西と猪口も手伝って起案され、命令書は、連合艦隊、軍令部、海軍省など中央各所に発信された。 その後、関ら敷島・大和両隊はマバラカット西飛行場に、朝日・山桜両隊はマバラカット東飛行場にそれぞれ移動して出撃の時を待つ事となった。関ら敷島隊と大和隊の特攻隊員は、マバラカット西飛行場の傍を流れるバンバン川の河原で大西と談笑していたが、15時頃に敵艦隊をサマール島東方海面に発見したという報告が司令部に寄せられた。参謀の猪口は敵の位置を書き込んである海図を持って、関らと談笑している大西に報告に向かい、「特別攻撃隊には距離いっぱいのところですが、攻撃をかけましょうか?」と判断をあおいだところ、大西は、「この体当り攻撃は絶対のものだから、到達の勝算のない場合、おれは決して出さない」と答えている。猪口はこの大西の攻撃自重の判断を聞いて、大西が初回の特攻にどれだけ慎重であるか思い知らされたが、これ以降新しい情報もなかったため、大西は一旦マニラに帰還することとした。帰り間際、大西は副官の門司の水筒に目を付けると「副官、水が入っているかと尋ねたので、門司が水筒を大西に渡すと、大西はまず水筒の蓋で自ら水を飲み、次いで猪口と玉井にも水を飲ませて、その後水筒ごと玉井に手渡し、あとは玉井が並んでいる関大尉以下7名の特攻隊員に水をついでいった。このときの様子をカメラマンの稲垣が撮影しており、のちに内地で、8月21日の関率いる敷島隊の出撃前の様子として日本ニュースで報道されたが、実際にはその前日の出来事で、敷島隊と大和隊両隊の隊員が入っており、待機姿勢であるので服装もバラバラで、飛行服を着ているのは関と山下の2名のみ、残りの5名は防暑服を着用している。稲垣は玉井から事前に「重大なことがあるから一緒に来るように」と呼び出されており、撮影の準備をしていたのでこのシーンを撮影できたものであるが、大西は特攻隊員への訓示でも述べた通り、神風特別攻撃隊の国民への報道について強い拘りを持っており、この「訣別の水盃」のシーンも敢て大西が意図して撮影させたという意見もある。その後、大西は門司とマニラに帰り、大和隊(隊長・久納好孚海軍中尉(法政大学出身))は20日夕方に二〇一空飛行長中島正少佐に率いられセブ島に移動していった。 作家の高木俊朗が文芸春秋1975年6月号に記述したところによれば、同日夜、海軍報道班員の小野田が、関の談話を取ろうと関の部屋に入ったところ、前日の夜に隊長指名を受けた関はこの時、顔面を蒼白にして厳しい表情をしつつピストルを小野田に突きつけ、「お前はなんだ、こんなところへきてはいかん」と怒鳴ったが、小野田が身分氏名を明かすとピストルを引っ込めた。とされており、この行動は関が「異常な心的状況の中に身を置いていた」 が故の「異常な行動」と分析する者もいる。しかし、関と小野田は、関がフィリピンに着任した直後から面識があり、また、小野田本人が作家の深堀道義に語ったところによれば、このような事実はなく、高木の創作であるとの指摘もなされている。小野田によれば、その夜、関は心を許していた小野田と一緒に宿舎の外に出て、バンバン川まで歩くと、河原の石に腰かけて次のように語った。 報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある。僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍の隠語で妻)のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ。素晴らしいだろう。 — 関行男、マバラカット基地近くのバンバン川にて この発言の前半部分は、元は艦上爆撃機搭乗員としてのプライドから出た不満であり。後半は妻の満里子や母のサカエのことを想起した発言で、承諾の言葉である「ぜひ、私にやらせて下さい」は、「自らの内奥に相剋する想念の全てを一瞬のうちに止揚して」発した発言という指摘もある。201空に着任以来、艦爆出身のよそ者で本心を打ち明ける同僚もなく、隊では孤立ぎみであった関は、同じくよそ者であった記者の小野田に一気に心の鬱積を解き放ったかのようであった。さらに関は小野田に、胸ポケットに大事にしまっていた新妻満里子の写真を見せびらかすと、その美しさを自慢し、デートの様子などを話した。それを聞いた小野田が微笑ましい気分となって「それじゃあまるで関大尉は(小説)不如帰の武夫と浪子さんそっくりじゃないですか」と冷やかすと、関は「まさにドンピシャリ」と真顔で答えて、茶目っ気たっぷりに満里子の写真にキスしてみせるなど戯けて見せたので、小野田が「ナイスですな」とさらに冷やかすと関はご機嫌になったという。最後に関は一緒に出撃する他の特攻隊員らのことを慮って「ぼくは短い人生だったが、とにかく幸福だった。しかし若い搭乗員はエスプレイ(芸者遊び)もしなければ、女も知らないで死んでいく・・・」と話している。また、関はこの日に日本から戻ってきたばかりの菅野にも不満や残る家族への思いを打ち明けている。
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