第二〇一海軍航空隊
二〇一空
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1944年(昭和19年)7月10日343空解隊、第201海軍航空隊戦闘201飛行隊の隊長に着任。 ダバオで部下の笠井智一らが憲兵隊長と喧嘩をして、201空に当事者の身柄引き渡し要求があったが、菅野は「そんな奴は知らない。部下は渡さない」と追い返した。要求は再三続いたが、201空からヤップ島派遣隊を出す際に菅野とともにその当事者らも編入された。7月10日から23日までヤップ島でアメリカ陸軍航空軍爆撃機B-24迎撃任務に従事。派遣隊は撃墜17機(不確実9)撃破46機の戦果を上げて一航艦司令長官から表彰を受ける。この戦闘で菅野は、零戦に搭乗し、B-24の垂直尾翼に乗機の主翼を引っ掛けて吹き飛ばし、撃墜。また、一度に2機のB-24を撃墜した。対大型重爆攻撃機の戦法が用いられ効果を発揮した。松尾哲夫一飛曹、富田隆治一飛曹がB-29に体当たりして戦死し、菅野の進言もあり、1945年(昭和20年)2月1日、両隊員の二階級特進が認められた。 フィリピンで機銃弾を受けた際、麻酔なしで大腿部からの摘出手術を受けると希望して、痛みで途中一時中止したが、瞑想して気合を入れると、摘出して縫合を終えるまで表情を変えず一言も発しなかった。 10月、菅野の戦地勤務が長いため内地に一度戻す意味もあり、201空が受領する零戦52型のテストのため、部下の杉田庄一らとともに群馬県太田市の中島飛行機小泉製作所への出向命令が下る。菅野は大きな戦いに間に合わないかもしれないと抗議したが、認められなかった。受領した零戦をフィリピンへ持ち帰る際、間違えて別の基地に着陸し、そこの司令に叱責された為、菅野はエンジンを全開にしてプロペラの風圧で指揮所のテントを吹き飛ばし去って行った。 1944年(昭和19年)10月25日、菅野と海兵同期の関行男大尉が神風特別攻撃隊指揮官兼「敷島隊」隊長として特攻。201空副長玉井浅一中佐は、その指揮官の選考の際に「菅野がいればな・・・」とつぶやいたという。菅野は関の特攻を聞くと「自分がいれば、関のところをとるんだったんだがなあ…」と寂しげに呟いた。また再三特攻に志願したが、技量の高さから直掩に必要なため、認められなかった。 1944年10月27日、第2神風特攻隊「忠勇隊」の直掩任務に志願する。戦果を報告した際、201空飛行長中島正から「戦果が大きすぎる、何か勘違いしていないか、レイテへ行って本当に体当たりをしたのか、本当に目撃したのか」など言われ、その発言に菅野は憤って腰の拳銃で床に発砲した。笠井智一らもあの言いぐさはないと憤ったという。菅野自身の右足親指を銃弾がかすめたが、発砲は暴発の扱いで済んだ。菅野は特攻機の直掩・戦果確認を務める際はわれわれも特攻精神でいくと話し、直掩機の落下傘装備を禁止した。搭乗員宿舎で酒を飲み特攻の憂さを晴らしていると、司令部から「やかましい」と苦情が来たが、菅野は「明日の命も分からない搭乗員に何を言う」と怒鳴り、黙らせた。 1944年11月、セブに飛行機を空輸して帰る際、部下から特攻隊員を出すように要求されたが、拒否して部下を出すくらいなら自分がいくと主張した。セブ島の現地部隊に零戦を取られたため、中攻でマニラへ帰還することになるが、P-38に襲われ「もう駄目です、皆さん、諦めてください」と中攻操縦士が告げると、菅野が「どけ、俺がやる」と経験のない中攻操縦を交代して敵機の追撃を振り切りルバング島へ不時着、脱出直後、中攻は爆破された。ルバング島で救援が到着するまでの数日間、原住民に対して「俺は日本のプリンス菅野だ」と名乗り原住民の敬愛を集め、島の王様の様に過ごした。 次の任地が決まった菅野ら17名に対し、玉井浅一司令が特攻の招集をかけた。菅野は「移動が決まったんだ。もう行く必要はない」と引き留め、輸送機の手配を進めてフィリピンを出発した。第252海軍航空隊に編入され、特攻兵器「桜花」の直掩任務につく予定だったが、桜花を搬送していた輸送船が沈没したこともあり中止になった。
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