二〇三空とは? わかりやすく解説

二〇三空

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 17:34 UTC 版)

西沢広義」の記事における「二〇三空」の解説

1944年3月1日203空配属7月10日戦闘303飛行隊所属北千島方面防衛にあたる。ベテラン次々死んでいくため経験の浅い者の指揮を心配し軍紀あり方についての論文提出する1944年昭和19年9月下旬千葉県茂原基地角田和男曹長部屋に、南東方面激戦経験したエース・パイロット西澤岩本徹三長田延義、尾関行治、斎藤朗らが集まる機会があった。この際西沢撃墜数を120機以上と語っている。また、岩本徹三が「敵が来る時は退いて敵の引き際に落とすんだ。つまり上空待機して離脱して帰ろうとする奴を一撃必墜するんだ。すでに里心ついた敵は反撃意思がないから楽に落とせるよ。一回空戦で五機まで落としたことがあるな」「敵の数が多すぎて勝ち目の無い時は目をつむって真正面から機銃撃ちっぱなしにして操縦桿ぐりぐり回しながら突っ込んで離脱する時もあるよ」と語ると、西沢は「途中で帰る奴なんか、被弾したか、臆病風吹かれた奴でしょう。それでは(他機との)協同撃墜じゃないですか」と反論している。 1944年昭和19年10月捷号作戦参加のためフィリピン進出10月25日関行男大尉率い神風特別攻撃隊敷島隊の直掩務め戦果確認する10月26日乗機セブ基地特別攻撃隊引渡し新し飛行機受領のため、マバラカット基地輸送機便乗して移動する。その途中輸送機ミンドロ島北端上空達したところで、ハロルド・P・ニュウェル中尉グラマンF6F攻撃受けて撃墜され西沢戦死した。ニュウェル中尉百式重爆撃機だったとするが、1021空の河野光揚によれば一式陸攻ではないかという。 1945年8月15日終戦時連合艦隊告示172号で、「戦闘機隊の中堅幹部として終始勇戦敢闘敵機対す協同戦果429撃墜49撃破単独36撃墜2機撃破稀に見る赫々たる武勲を奉し」と全軍布告された。この他撃墜数に、家族への手紙記載され143機、戦死時の新聞報道記載され150機がある。 戦後太平洋戦争における日米両軍通じたトップエースの一人として知られアメリカ合衆国国防総省スミソニアン博物館杉田庄一並んで肖像飾られている。美男子であり身長は180センチ以上あった。戦後書かれ戦記では「ラバウルの魔王」と評された。

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二〇三空

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 09:02 UTC 版)

岩本徹三」の記事における「二〇三空」の解説

1945年昭和20年3月末二〇三空戦闘三〇飛行隊沖縄戦開始米軍上陸地点最初に確認した夜間単機強行偵察沖縄戦開始初頭夜間強行偵察では、岩本単機慶良間諸島上陸作業中の米軍艦艇銃撃し、大損害を与えたことが、慶良間海洋文化館の記録と、岩本の手記とで一致している。4月6月半ばまで数次にわたる特攻作戦直掩4月7日坊ノ岬沖海戦事後迎撃鹿屋航空基地上空でのB-29編隊単機撃墜報告土方敏夫中尉沖縄戦での回想には岩本から受けた指導残されている。上空からグラマン不意打ち食って全機下方避退したことについて「あんなときは、全機降下するではなく誰かが上昇するようでなければ駄目なんだ。これは責任感問題だ。」と岩本その日空中戦について地上話し合ったとき力説していたという。この日の空戦岩本も足の指に負傷するほどの激戦で、着陸後しばらくの間岩本操縦席の中で動くことすらできなくなっていた。岩本経験未熟な若年土方敏夫中尉配属されたとき「初陣で弾を撃っていけません。私がまず敵を落として見せるから離れずついてきて見ていればいいです最初から敵を落とそうなどと考えて一人前になれません。もし着陸してから調べてみて弾が出ているようなら私は貴方を軽蔑しますよ。」と話した。しかし乱戦となり、自らの上官を見失い着陸後再会して上官に対して申し訳なかった。」と泣いていた。また、岩本戦いぶり地上見ていたときは「岩本さんは被弾して帰ってくることが多かった。あるときは、機体じゅうに被弾してよく墜ちなかったなあと思った。」という。土方中尉編隊場外飛行に向かう途中天候不良岩国引き返してきたとき、岩本土方中尉に「無理をしてはいけないですよ。よく引き返しましたね。」とその判断褒め褒められ土方中尉は「あの恐ろしいと思っていた岩本少尉褒めてくれたのは、何よりも嬉しいことであった。」と感じたという。「岩本少尉は、救命胴衣背面には通常所属部隊姓名官職を書くところ、救命胴衣背中に「零戦虎徹」(「虎徹」の二文字新選組局長近藤勇佩刀としても有名な刀工長曾彌虎徹興里になぞらえたもの)、「天下浪人」など大書していました。この「天下浪人虎徹」の文字はよく目立ち、名前を聞かずとも岩本少尉であるとすぐわかりました岩本少尉普段は、見たところ田舎じいさんのような格好をしていましたが、一旦車輪しまって飛び上がれば向かうところ敵なしでたいてい撃墜し帰ってきました。」と回想している。 零戦名刀虎徹準えたことについて、二五二空時代同僚斎藤三郎少尉は「古書曰く、兵は稜なりと。スピードがあるので、相互攻守位置瞬間逆転する。敵の隙を見落とした瞬間逆にわが態勢崩れ去るのが普通だったその意味所詮空戦もまた白刃場裡一歩も出るものでなかった。いかに正宗虎徹のごとき名刀をたばさんでいても、機会逸すれば鈍刀にも劣る。」と解説している。 第203航空隊安部正治上飛曹の手記によると、岩本先輩支那事変からの古強者で、海兵団出身者には親しみ感じられいました岩本先輩小柄物静かでしたが、強い殺気感じさせるものがあり、さながら昔の剣客といった印象でした。彼の放った射弾は垂直降下中でも、どの方向からでも敵機吸い込まれいきました昭和20年5月4日安部上飛曹は沖永良部上空空戦入りF4U撃墜した基地帰投岩本分隊士から「どうや?やったか?」と質問され「はい。1機やりました!」と答えると「うん。よっしゃ!よっしゃ!」と元気な声で戦果集計された。その姿はピンピン跳ね返るような嬉しさ満ち、まさに撃墜戦闘機乗りの最高の生きがいであると言わんばかりであった岩本自身「この撃墜瞬間気持ちは、なんとも言えない。命をまとに闘っている戦闘機乗りにだけ許され至境であろう。」とラバウルでの戦闘述べている。 1945年6月二〇三空補充部隊として岩国で、B-29編隊に対して零戦自爆特攻をする「天雷特別攻撃隊」の教官として教育・指導を行う。 1945年8月15日終戦迎える。喪失感のあまり3日ほど抜け殻ようになった述べている。終戦から数日後搭乗員解散命令で、写真など全部所持品焼いてウイスキー1本を軍用自転車積んで岩国から益田まで帰郷したポツダム進級によって1945年9月5日海軍中尉予備役編入

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