神風特別攻撃隊とは? わかりやすく解説

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神風特別攻撃隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/03 23:56 UTC 版)

神風特別攻撃隊(かみかぜとくべつこうげきたい[1][2][3][4]しんぷうとくべつこうげきたい[5][6][7]旧字体: 神󠄀風特別攻擊隊󠄁)は、第二次大戦大日本帝国海軍によって編成された爆装航空機による体当たり攻撃部隊(特別攻撃隊)と直接掩護並びに戦果確認に任ずる隊で構成された攻撃隊[8]。攻撃目標は艦船[9]。略称は「神風」「神風特攻隊[10]。隊名の発案者[注 1]猪口力平によれば、「神風」の読みは音読みの「しんぷう」であるが、当時のニュース映画訓読み「かみかぜ」と読み上映したことでその読みが定着した[11]昭和19年(1944年)10月から終戦までの約10か月間に渡って出撃を繰り返し、アメリカ海軍を主力とする連合国海軍に多大な損害を与え、米国戦略爆撃調査団から「日本人によって開発された唯一の、もっとも効果的な航空兵器」とも評された[12]


  1. ^ これは猪口の証言によるものであり、戦史叢書56 1972, p. 108によれば、大西瀧治郎がフィリピンに出発する前に軍令部で航空特攻開始について参謀の源田と打ち合わせした際に「神風攻撃隊」との特攻隊全体の名称と、敷島、朝日隊等の部隊名は既に決まっており、その隊名に基づいて大海機密第261917番電も作成されており、「神風特別攻撃隊」の実際の命名者は誰であるのか判然としない。本文(歴史>創設の項目)を参照。
  2. ^ 高空を高速で侵入し、防御火力が厚い戦略爆撃機に対する枢軸国防空戦闘機による体当たり攻撃の例としては、震天制空隊(日本)やエルベ特別攻撃隊ナチス・ドイツ)を参照。
  3. ^ 戦闘901航空隊飛行隊長で、のちに芙蓉部隊の指揮官として有名となった美濃部正少佐が、自分が偵察飛行を行ったので誤報であることが判明したと戦後に出版した著書『大正っ子の太平洋戦記』(方丈社)などで主張しているが、事件後に現地調査した軍令部参謀奥宮正武中佐は玉井の偵察飛行で判明したと証言している。
  4. ^ このコンセプトは米内光政海軍大臣によるものと言われる[62]
  5. ^ この証言は、大西瀧治郎が公言したものではない。角田和男が小田原俊彦大佐から聞いた話である。大西自身は終戦講和に強く反対したことから、この証言に懐疑的な見解を持つ研究者もいる[63]
  6. ^ 甲飛10期生は、神風特攻隊の創始者を大西ではなく玉井と見ている。その理由として「編成は現場を熟知している玉井によって既に作られていたような手早い段取り、組み合わせだったこと[87]」「玉井はフィリピンにおける特攻の最たる推進者で、マリアナ沖海戦後は早い段階から体当たり攻撃を提唱し、甲飛10期生に『もう特攻しかない』『必ず特攻の機会をやる』と話していたこと」を挙げている[88]
  7. ^ アメリカ本土に曳航されたが修理不能と判定され除籍されたか、戦後に行われた損傷艦艇の検査の際に、新造以上のコストがかかると判定され、海軍作戦部長命で廃艦指示された艦。
  8. ^ 損傷艦は延べ数
  9. ^ アメリカ海軍、イギリス軍、ソ連軍各1隻。
  10. ^ 護衛空母「セント・ロー」は沈没時に113名戦死したが、その後に負傷が原因で30名が死亡。
  11. ^ 有効至近命中はアメリカ軍艦艇に損傷を与えたもののみ計上。
  12. ^ 合計が合わないが原資料のまま。
  13. ^ 船が回頭する際の軸。前進中ならば船首から船の重心までの距離の約13にあたる
  14. ^ 第二次世界大戦中におけるアメリカ軍の駆逐艦の撃沈破艦の約半数が、大戦末期にわずか10ヶ月間の特攻による損害であった。
  15. ^ シュブリックに突入した機体の機種は公式記録上は不明であるが、シュブリックが特攻された時間、5月29日0:13に沖縄に突入した航空機は、28日19:13から夜間出撃した第三次白菊隊11機以外になく(白菊は沖縄到達まで約5時間の飛行時間)白菊の戦果と推定される。
  16. ^ 当時アメリカの一部では特攻隊員は機体に縛り付けられたり、薬やアルコールで判断力を失ったりしていると信じられていた。
  17. ^ 護衛空母「サンガモン」のこと。1945年5月4日に特攻により大破して戦線離脱しそのまま除籍された。
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「神風特別攻撃隊」の続きの解説一覧

神風特別攻撃隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 21:01 UTC 版)

関行男」の記事における「神風特別攻撃隊」の解説

1944年10月17日第一航空艦隊司令長官内定した大西瀧治郎中将マニラ到着した大西は一航艦長官に内定したときから航空機による特攻開始考えており、米内光政海軍大臣及川古志郎軍令部総長了承取り付けていた。マニラに向かう途中には台湾にも立ち寄ったが、台湾沖航空戦真っ最中で、新竹日本軍戦闘機アメリカ軍戦闘機空中戦様子見学した。そこで日本軍戦闘機苦戦ぶりを見て愕然とし、多田武雄中将に対してこれでは体当たり以外無い」と話している。大西台湾入りしていた連合艦隊司令長官豊田副武大将とも面会し大戦初期のような練度の高い者ならよいが、中には単独飛行がよっとこせという搭乗員沢山あるこういう者が雷撃爆撃をやっても、被害見合う戦果期待できない。どうしても体当たり以外に方法はないと思う。しかし、命令では無くそういった空気にならなければ特攻は)実行できない」と特攻開始する決意述べている。 大西は「ダバオ誤報事件」の失態責任をとって更迭され前任寺岡謹平中将にも特攻開始了承をとったのち、10月18日参謀などから意見聴取し現状把握努めたが、一航艦の現有兵力のうち、実働機数が約40程度であることを知って、より特攻開始決意強くした。翌19日には、大西は一航艦司令部第七六一海軍航空隊司令前田孝成大佐に戦局説明行った後、副官門司親徳大尉伴ってマバラカット飛行場に向かう。夕刻近くマバラカット到着の後、指揮所に二〇一空副長玉井浅一中佐、一航艦首参謀猪口力平中佐などを招集し、「米軍空母1週間使用不能に捷一号作戦成功させるため零戦250キロ爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法はないと思うがどうだろう」と特攻作戦開始提案した大西入れ違いマニラ向かい大西入れ違いになったのでまたマバラカットに戻る途中乗機不時着により足を骨折して海軍病院入院した二〇一空司令山本大佐には、この会合とは別に一航艦参謀長小田原俊彦大佐から大西考え体当たり攻撃法を披瀝され、「副長玉井)に一任する」との伝言託していた。玉井体当たり攻撃法に賛成し戦闘三〇飛行隊長指宿正信大尉同意したため、「未曾有の攻撃法」たる体当たり攻撃採用される至った玉井大西に、攻撃隊の編成一任するよう申し出て了承されると、猪口とともに攻撃隊の編成取り掛かるが、玉井猪口には大まかながら攻撃隊の編成出来上がっていた。すなわち、隊員第十甲種飛行予科練習生から選出して、これは玉井第二六三海軍航空隊時代から何かと甲十期生の面倒を見て共に戦ってきた背景があり、甲十期生に一花かせようという魂胆からだった。二〇一空にいた甲十期生は63名で、体調不良だったり日本航空機受領行っていた者などを除いた33名の中から隊員を選ぶこととした。指揮官海軍兵学校出身者士官搭乗員から選ぶもので、これは猪口提案であった猪口は、指揮官には当初第三〇六飛行隊長で、関の同期である戦闘機搭乗員エース・パイロット菅野直考えていたが、菅野日本機材受領に赴き不在であったため、関が攻撃指揮官として選出されることになる。その理由として、関が着任時に玉井挨拶した際に「内地から張り切って戦地にやってきた風」のような感じ与えていたことや、戦闘合間見ては、再三再四わたって熱心に戦局対す所見申し出て出撃への参加志願し玉井脳裏に「この先生なかなか話せる男だわい」という強い印象として残っていたからだと、玉井後年になって回想している。猪口兵学校教官時代から関を知っており、テニス好きのスマートな男だが利かん気のところがあるという印象持っていた。猪口は「関ならよかろう」と玉井賛同し猪口賛同得た玉井は、数日前から熱帯性下痢患い軍医副島泰然大尉指示絶食し私室療養していた関を呼びに行かせた。 やがてカーキ色第三種軍装を身に着けた関が玉井部屋訪れたので、玉井は関に椅子をすゝめ、腰かけた関の肩を抱くようにして「今日大西長官201空来られ捷一号作戦成功させる為、空母飛行甲板体当たりかけたいという意向示された。そこで君にその特攻隊長をやってもらいたいんだがどうかね」と 体当たり攻撃隊の指揮官として白羽の矢立てた」ことを告げた猪口によれば、関は指名された際にその場熟考の後「ぜひやらせて下さい」と即答したという。熟考時間はわずか数秒という証言もあるが、自分指名されるとは思ってもいなかった関が戸惑っていたところに玉井がさらに「どうだろう、君が征ってくれるか」と念を押してきたので、「承知しました」と無造作に一言答えたとする証言もある。また、即答はできずに、「一晩考えさせて下さい」と逡巡したが、玉井念押しで、結論先延ばしすることはできない決断し、「承知しました」と返答したとする証言もある。関が引き受けたことで玉井ほっとし、「頼む、最初海兵出身指揮をとるべきだと思う。貴様が一番最初に行ってくれると大助かりだ。全軍士気問題だ」関に感謝言葉述べたという。戦後玉井が関の慰霊祭参席した際に、関が「一晩考えさせて下さい」と即答避けたのち、翌朝になって引き受けます」と承諾したなどと証言したとも伝えられるが、これは、関が了承したあとの経緯から見て時系列的に矛盾することが多く玉井記憶違いである。 関が了承した後、玉井と関は士官室兼食堂移動したが、そこに大西猪口大西副官門司親徳中尉合流した猪口とは多くは語らなかったが、猪口の「君(関)はまだチョンガー独身)だったな」という問いかけに対して「いえ、結婚しております」と答えたという。その後関は「ちょっと失礼します」と一同に背を向けて薄暗いカンテラの下で新婚の妻満里子父母対す遺書書き始めた遺書のほかにも、満里子親族対すお礼や、教官時代教え子に対しては「教へ子は 散れ山桜 此の如くに」との辞世残した

※この「神風特別攻撃隊」の解説は、「関行男」の解説の一部です。
「神風特別攻撃隊」を含む「関行男」の記事については、「関行男」の概要を参照ください。

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