横浜港ドイツ軍艦爆発事件
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横浜港ドイツ軍艦爆発事件(よこはまこうドイツぐんかんばくはつじけん)は、神奈川県横浜市の横浜港新港埠頭内で、1942年(昭和17年)11月30日に起こったドイツ艦船「ウッカーマルク」の爆発事故[1][2]。
概要
ドイツの高速タンカーである「ウッカーマルク」は、ドイツのキールやドイツ占領下のフランスの軍港から、厳重な大西洋上の連合国軍の海上封鎖線を突破して、1942年以降日本が制海権を握っていたインド洋から、昭南(日本占領下のシンガポール)やペナンなどの日本海軍の基地を経て、横須賀港や横浜港などを結んだ「柳船」のうちの1隻として日本に訪れ、横浜港を拠点に活動していた。
事件の1週間ほど前に、日本軍占領下のインドネシアから大日本帝国陸軍向けの航空ガソリンを横浜港に運び[3]、新港9号岸壁に係留され油槽清掃中の11月30日13時40分頃に爆発を起こした。
爆発により、港湾施設や近くに停泊していた船舶が被害をうけた[4]。
爆発の原因は、大規模な被害により物証となるものが破壊されてしまった上に、戦時中のことであり、現在でも明らかになっていない。そのため、当時からイギリスやソビエト連邦などの敵国(当時日本とソ連は戦争状態にはないが、ドイツとソ連は戦争状態にあった)の工作員による破壊工作など様々な説が唱えられたが、目撃者の証言などから、ウッカーマルクの油槽の清掃作業中の作業員の喫煙との説が有力である[5]。
被害

この事故により、ドイツ海軍の将兵ら61人、中国人労働者36人、日本人労働者や住人など5人の合計102名が犠牲になり、周辺の住民や労働者、ドイツ海軍艦船を見学に来ていたドイツ大使館員のエルヴィン・ヴィッケルトをはじめ多数の重軽傷者を出した[5]。
また、ウッカーマルクとその近辺に停泊していたドイツ海軍の仮装巡洋艦「トール」、およびトールに拿捕されたオーストラリア船籍の客船「ナンキン」(拿捕後「ロイテン」と改名)、中村汽船所有の海軍徴用船「第三雲海丸」の合計4隻が失われ、横浜港内の設備が甚大な被害を受けた[6]。
犠牲者のうちドイツ海軍将兵ら外国籍者は横浜外国人墓地に埋葬された。なお、事故前後まで横浜港を活動拠点としていた行商人であった、俳優の竹中直人の母方の祖父が、この事故の犠牲者の一人となっている[7]。
その後
生き残ったドイツ将兵のうち将校クラスの数名は潜水艦で帰国したものの、その他の将兵はその後ドイツの戦局が悪化し、さらに日本の戦局も悪化したために帰国できず、終戦まで箱根町の芦之湯温泉の貸切状態の旅館で暮らし、大戦終結後まもなくGHQによりドイツに送還された。
なお、この事故は港周辺の住民の多数に目撃されたものの、戦時中の同盟国の軍艦の事故のために機密扱いとされ、戦後は大きな話題になることもなくなり長く秘されていた。しかし、横浜税関に残されていた事故の写真フィルム(ガラス乾板)[8]により、神奈川新聞社の取材で事故の概要が明らかになった。
余談であるが、この事故で生き残った将兵が戦時中に箱根に阿字ヶ池と呼ばれる人工の池を作ったことで知られる[9][10]。
脚注、出典
- ^ “横浜港ドイツ軍艦爆発事件の全貌に迫る、10年の歩みを加筆し文庫化”. 神奈川新聞. (2011年5月5日) 2020年11月30日閲覧。
- ^ 城英一郎日記 1982, pp. 213–214(昭和17年11月30日、月)(中略)本日午後、横浜港在泊中の独逸特巡猶給油艦ウッケルマルク号内に爆発起り、附近の独乙船二隻及陸岸倉庫等に火災。独乙人死傷約二〇〇、附近海軍徴傭船一隻、小被害。一二月一日、武官より大臣の上聞書により上聞
- ^ 石川美邦『横浜港ドイツ軍艦燃ゆ 惨劇から友情へ 50年目の真実』木馬書館、1995年、ISBN 4-943931-40-5
- ^ 高松宮日記五巻、260-261頁(昭和17年11月30日記事)一六二〇横浜岸壁デ独ノ「
揮発油船 」ガ爆発シ、横付シテヰタモ一ツノ「レーダーリー」〔行間書込〕十号艦 ガ沈没シ隣リ二隻火災、桟橋ノ倉庫ハ災燃シタトノ騒ギアリ。第五列ノ仕業ナルベシ。正子 、病院ニ収容セル独国人一六〇名バカリ。(以下略) - ^ a b エルヴィン・ヴィッケルト著『戦時下ドイツ大使館 ある駐日外交官の証言』中央公論社、1998年、ISBN 4-12-002745-7
- ^ 高松宮日記5巻、261頁(欄外解説より)
- ^ ファミリーヒストリー 「竹中直人~長崎五島・謎の絵師 闇に葬られた爆発事件~」
- ^ “横浜港ドイツ軍艦爆発事件の全貌に迫る、10年の歩みを加筆し文庫化”. 神奈川新聞ニュース. オリジナルの2019年3月29日時点におけるアーカイブ。
- ^ “芦之湯温泉国民保養温泉地計画書” (PDF). 環境省 (2015年7月). 2018年11月13日閲覧。
- ^ “カトリン・パウル展 ドイツの足跡in箱根” (PDF). 箱根写真美術館 (2011年9月). 2018年11月13日閲覧。
参考文献
- 石川美邦『横浜港ドイツ軍艦燃ゆ 惨劇から友情へ 50年目の真実』木馬書館、1995年、ISBN 4-943931-40-5
- エルヴィン・ヴィッケルト『戦時下ドイツ大使館 ある駐日外交官の証言』中央公論社、1998年、ISBN 4-12-002745-7
- 荒井訓・上田浩二『戦時下日本のドイツ人たち』集英社、2003年、ISBN 4-08-720203-8
- 城英一郎 著、野村実 編『侍従武官 城英一郎日記』山川出版社〈近代日本史料選書〉、1982年2月。
- 高松宮宣仁親王、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第五巻 昭和十七年十月一日~昭和十八年二月十一日』中央公論社、1996年11月。ISBN 4-12-403395-8。
関連項目
横浜港ドイツ軍艦爆発事件
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「アルトマルク (船)」の記事における「横浜港ドイツ軍艦爆発事件」の解説
詳細は「横浜港ドイツ軍艦爆発事件」を参照 アルトマルクは、1940年(昭和15年)8月6日にウッカーマルク (Uckermark) と改名された。この船名も北ドイツ景勝の地の名前である。 1941年(昭和16年)1月下旬以降、リュッチェンス提督が率いるシャルンホルスト級戦艦2隻(グナイゼナウ、シャルンホルスト)が大西洋に進出して通商破壊作戦を実施した(ベルリン作戦)。3月11日、シャルンホルスト級戦艦2隻は補給船2隻(ウッカーマルク、エルムランド)に合流した。リュッチェンス提督は戦闘能力のない補給船2隻も見張り役として引き連れてゆき、その効果によりHX-114船団を発見、3月15日と16日に大戦果を挙げる(1941年3月の損失船一覧表)。ところが襲撃中にHX114船団を護衛していたイギリス海軍の戦艦ロドニー (HMS Rodney, 29) に発見される。ネルソン級戦艦(16インチ砲、9門)からの信号に対してグナイゼナウ(11インチ砲、9門)は「本艦はイギリス軽巡のエメラルドなり」と返答し、ロドニーは攻撃を控える。グナイゼナウは逃走し、僚艦3隻(シャルンホルスト、ウィッカーマルク、エルムランド)もイギリス海軍の捜索網から逃れた。その後、シャルンホルスト級戦艦2隻はH部隊の追跡をかわし、3月22日になってフランスのブレスト軍港に到着した。補給船2隻(ウィッカーマルク、エルムランド)も無事だった。 1942年(昭和17年)9月9日、ウッカーマルクは日本に向けてフランスを離れた。途中、仮装巡洋艦ミヒェル (Michel) への補給を行い、インドネシアで日本向けの石油を積み込む。同年11月24日午前8時、本州の横浜に到着した。搭載してきた燃料を日本陸軍に引き渡す。同月28日夜、横浜港の新港埠頭第8号岸壁に接岸した。 11月30日午後1時46分頃、横浜港の埠頭に停泊中のウッカーマルクは、突如大爆発を起こした。ウッカーマルクの右舷側に停泊中して整備と弾薬補給を実施していたドイツ海軍の仮装巡洋艦トール (Thor) 、ウッカーマルクの船尾側に停泊していた中村汽船所有の海軍徴用船「第三雲海丸」(3,028トン) 、やや離れて停泊してたロイテン (7,131トン)が爆発に巻き込まれた。さらにトールに搭載中だった魚雷や砲弾が誘爆した。この二度目の爆発は、ウッカーマルクで起きた最初の爆発よりも大規模であった。その後も爆発が続き、爆風と火災で港湾施設は大打撃を受け、残骸が市街地に降り注いで被害が拡大した。弾薬のために爆発が続いて消火作業に難航し、延焼した港湾施設を含めると鎮火したのは翌朝だったという。 気化したガソリンの爆発は、油槽タンク付近で行われていた修理で使用された道具の火花とする説や、ウッカーマルクの油槽の清掃作業中の作業員による喫煙説が有力である。一連の爆発と火災による被災者は数百名に達し、死者および行方不明者は公式記録で102名(ドイツ人61名、中国人36名、日本人5名)となっている。ウッカーマルクの乗組員は47人が死亡、31名が山手墓地、16名が根岸墓地に埋葬された。損傷がひどかったウッカーマルクは修理不能であり、スクラップとなった。 横浜港にいた封鎖突破船(柳船)ドッカーバンク(英語版、ドイツ語版) (Doggerbank) は、ウッカーマルクの爆発を免れた。ウッカーマルクとトールの生存者のうち、一部はドッガーバンクに便乗してドイツに戻ることになった。だが1943年(昭和18年)3月3日、大西洋で味方の潜水艦U-43(英語版、ドイツ語版)によって撃沈される。生存者は1名のみだった。 ウィッカーマルクとトールの大部分の乗組員は、治療と休養を兼ねて、箱根町の松坂屋旅館で待機することになった。第二次世界大戦終結後の1947年(昭和22年)4月、箱根に滞在していたドイツ海軍将兵は連合国軍が手配した貨客船で離日、ドイツに帰国した。
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