横浜港の開港と鉄道の創業
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横浜港は1859年(安政6年)に開港となったが、この時点では現在の大桟橋の根元付近に2本の突堤があるだけの港湾設備であった。1864年(元治元年)に、現在氷川丸が保存されている付近に2本の突堤が増設され、従来からの突堤を西波止場あるいはイギリス波止場、新しい突堤を東波止場あるいはフランス波止場と称した。1866年(慶応2年)11月に横浜は大火に見舞われ、その再建工事にあたってイギリスより招かれたリチャード・ブラントンが横浜の都市計画や港湾計画を進め、また東京と横浜を結ぶ鉄道の建設を提案することになった。 明治5年5月7日(グレゴリオ暦1872年6月12日)、新橋 - 横浜間で建設中であった日本で最初の鉄道のうち、横浜側の完成した部分を利用して、品川 - 横浜間での仮営業が始まった。同年9月12日(グレゴリオ暦10月14日)、明治天皇を迎えて開業式が挙行され、正式に新橋 - 横浜間の営業が開始された。この時開業した横浜駅は後の桜木町駅で、横浜の外国人居留地や波止場へ近づけることなく、野毛山の下の現在の位置に設置された。これは、大岡川を渡る橋を架けることを嫌ったためではないかと推測されている。これに先立って、明治4年8月8日(1871年9月22日)に横浜駅構内の海側に横浜機関庫が開設されている。 ブラントンは鉄道の開通を受けて、港の埠頭まで鉄道を引き込むことを提案するが、これは実現しなかった。一方、やはりお雇い外国人のヘンリー・S・パーマーもまたこの時期に政府の依頼で横浜港の修築計画を進めており、これにより西波止場から沖に突き出した大桟橋が建設された。計画では、この大桟橋と横浜駅を結ぶ臨港鉄道が建設されることになっていたが、鉄道予定地に当たっていた日本郵船や回漕業者が艀の荷揚げ地を線路で分断されることを恐れて反対し、結局税関構内と桟橋を結ぶ線路が敷設されただけで新橋 - 横浜間の一般鉄道網へは接続されなかった。この桟橋内の路線は4線(後に5線)が並列で敷かれており、合計150両の貨車が貨物の搬出入に当たっていた。しかし、旅客用の波止場であったこともあり、後に廃止された。
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