鉄道の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/10/30 13:14 UTC 版)
「ローマ=アルバーノ線」の記事における「鉄道の建設」の解説
ポルトナッチョ - マリーノ間の開業の翌年(1881年)、国王ウンベルト1世は、チェッキーナ経由でネットゥーノとアルバーノ・ラツィアーレを結ぶ新たな鉄道路線の実現の布告にサインした。この新線は1884年3月に開業し、ヴェッレトリ行き路線と交差しチェッキーナに達した。そのためローマ=アルバーノ間を結ぶ鉄道はチェッキーナを中間地点とすることとなった。 このように連結された線路は行程の長さや所要時間において最終的な解決に至ることができなかったことが明確となった。この地域の地形上の特徴のある特別な区間の難問をかかえながら、ローマとアルバーノ・ラツィアーレ間を直結する問題に取り組むことを決定した。 鉄道の実現の為に4つのトンネル(コッレ・チミーノ、マリーノを掘り、カステル・ガンドルフォ、アルヴァーノ・ヴィッラ)と一つの高架と6つのアーチ(マリーノ付近の「セイ・ポンティ」橋)を作り、1889年10月23日にチャンピーノとアルバーノ・ラツィアーレ間が開業した(チャンピーノとローマの区間は既にあった他の路線と共有)。 新たな鉄道の開業によって、ポルトナッチョ=マリーノ間の蒸気汽車は不要となり、1889年に廃止された。 ローマ=アルバーノ=ネットゥーノ鉄道路線では、マリーノ駅とアルバーノ駅がいまだに証明するように 郵便や貨物の激しい交通量があった、その重要さはゴムタイヤでの交通が多くなり全てが消滅してしまった。 ネットゥーノとの接続は、最初にチェッキーナで途切れたため1927年にアルバーノ=チェッキーナ間も使えなくなった。 チャンピーノ=アルバーノ・ラツィアーレ線は1947年に電化された(ローマ=チャンピーノ間はすでに戦前に済んでいた)。最初は蒸気機関車により牽引されていた列車、1930年代から終戦にかけて旅客輸送に従事していた「リットリーナ」、その後はより近代的な電化車両に交換された。 カステッリ・ロマーニの路線では間違いなくローマ=アルバーノ線はもっとも見晴らしが良く、ローマの前に拡がるパンタネッラ駅~マリーノ・ラツィアーレ駅間とアルバーノ湖前のスペクタクル、カステル・ガンドルフォ・トンネル入り口の火山のクレーター内側の山稜が路線と並ぶ様などが見られる。
※この「鉄道の建設」の解説は、「ローマ=アルバーノ線」の解説の一部です。
「鉄道の建設」を含む「ローマ=アルバーノ線」の記事については、「ローマ=アルバーノ線」の概要を参照ください。
鉄道の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 20:17 UTC 版)
戦地における鉄道の建設・修理・運転や敵の鉄道の破壊に従事する。
※この「鉄道の建設」の解説は、「工兵」の解説の一部です。
「鉄道の建設」を含む「工兵」の記事については、「工兵」の概要を参照ください。
鉄道の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 23:36 UTC 版)
鉄道においても碓氷峠を越えることは早くから重要視され、上野駅 - 横川駅間が1885年に、さらに軽井沢駅 - 直江津駅間が1888年に開通すると当区間が輸送のボトルネックとなり、東京と新潟の間の鉄道を全線開通させることが強く望まれた。なお、1888年から1893年にかけては碓氷馬車鉄道という馬車鉄道が国道18号上に敷設されていたが、輸送可能な量が少ない上に峠越えに2時間半もかかっていた。当初の機関車の能力では粘着式鉄道にて通過困難な勾配があり、スイッチバックやループ線などを設ける方法では対処できなかったためラック式鉄道を模索し、視察したドイツのハルツ山鉄道を参考にしてアプト式(アブト式)を用いることを提案した仙石貢と吉川三次郎のプランが採用された。この案では中山道沿いに線路を敷設するため資材や人員の運搬コストを低減できる一方で、最大で66.7 ‰(= .mw-parser-output .frac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .frac .num,.mw-parser-output .frac .den{font-size:80%;line-height:0;vertical-align:super}.mw-parser-output .frac .den{vertical-align:sub}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}1⁄15。約 3.8 度)という急な勾配になる。なお、この際に鉄道建築師長のボーナルは和美峠や入山峠を通る1⁄40程度の勾配の案を提示している。 1891年3月24日に起工したが、急勾配でラック式鉄道を用いるには列車の推進力を受ける道床に十分配慮する必要があった。ボーナルはその対策として、大きなスパンに従来よく使われていた鋼桁ではなくレンガ製のアーチを用いている。また、工事中の1891年10月に濃尾地震が起きてレンガ造りの建造物が倒壊したことを受け、橋脚に石柱を組み合わせたりレンガを縦に積むなどの地震対策が採り入れられた。このような技術が評価され、碓氷第三橋梁などの一連の橋梁、隧道などは1993年から翌年にかけて近代化遺産として国の重要文化財に指定されている。ただしアーチ部分の耐震性については効果は限定され、完成後の1894年6月の明治東京地震(マグニチュード=7.0)ではアーチにひびが入り、同年から1896年にかけてレンガを巻き立てる補強が行なわれた。 このような経緯を経て、延長11.2 kmの間に18の橋梁と26のトンネルが建設され、着工から1年9か月後の1892年12月22日に工事が完了し、翌1893年4月1日に官営鉄道中山道線(後の信越本線)として横川 - 軽井沢間が開通した。碓氷峠を越えることから「碓氷線」、また横川と軽井沢から「横軽(よこかる)」とも呼ばれる。
※この「鉄道の建設」の解説は、「碓氷峠」の解説の一部です。
「鉄道の建設」を含む「碓氷峠」の記事については、「碓氷峠」の概要を参照ください。
- 鉄道の建設のページへのリンク