国の重要文化財
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神宮奉納本として伊勢の神宮(三重県伊勢市)の収蔵する江戸時代の「渋川春海天文関係資料」12種は、1978年(昭和53年)6月15日付で国の重要文化財に一括で指定された。その後、天球儀と対をなす地球儀1基も追加で指定を受けた。 渋川春海天文関係資料 12種 『天文瓊統』自筆本 元禄十一年正月内宮奉納奥書 8冊 『日本長暦』自筆本 貞享二年夏内宮奉納奥書 2冊 『日本長暦』自筆本 元禄六年九月宮崎文庫奉納奥書 2冊 『日本長暦』自筆本 元禄五年正月応中川経晃需奥書 2冊 『日本書紀暦考』自筆本 (内宮奉納本) 1冊 『日本書紀暦考』自筆本 元禄五年正月応中川経晃需奥書 1冊 『両宮御鎮座古暦』自筆本 貞享元年九月奥書 1巻 『元禄二年七曜御暦』自筆本 元禄二年正月朔日奥書 1巻 『元禄三年具注暦』自筆本 元禄二年十一月朔日奥書 1巻 『元禄四年具注暦』自筆本 元禄三年冬日奥書 1巻 天球儀 元禄庚午(三年)在銘 1基 地球儀 1基附 『貞享暦儀』 7冊 附『日本古今交食考』 1冊 附『春海先生実記』甲子(延享元年)書写奥書 1冊
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国の重要文化財
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本殿 - 江戸時代前期(1778年)の建立。五間社流造、銅板葺、稲荷社を含む。延岡藩主内藤政脩を大檀那として安永7年(1778年)に完成したもので、造営には大分城下鶴崎の大工等が携わった。形式は五間社流造で、通常、脇障子となる縁西面には、稲荷社を設けている。装飾細部は躍動感のある大胆な構図とし、立体的につくられている。高千穂神社本殿は、欅材を用いた丁寧なつくりで装飾細部も充実し、意匠的な完成度も高く、九州地方南部を代表する大規模な本殿建築である。また、縁に小規模な社殿を附属した独特の形式や、当地方の伝説や祭礼に関連した彫物など、地方色も顕著に有しており、高い価値がある。2004年(平成16年)7月6日指定。 鉄造狛犬1対 - 伝・源頼朝奉納の鋳鉄製の狛犬。像高およそ55cmで、一般に鉄像は銅像に比べて複雑な形の鋳造や細部の仕上げが困難であるとされるが、当品は同時代(鎌倉時代)の木彫のものと比較しても遜色がなく、その鋳造技術は鉄造遺品中出色のものとされ、1971年(昭和46年)6月22日に指定された。 木造神像〈男神坐像1躯・女神坐像1躯〉附:木造神像2躯 - 元々は荒立神社の神像であったが、同神社を合祀した際(上述)、一緒に移されたもの。県指定の有形文化財に指定されていたが、2020年(令和2年)9月30日付で国の重要文化財に指定された。
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国の重要文化財
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「法明寺 (京都府笠置町)」の記事における「国の重要文化財」の解説
美術品木造釈迦如来立像:1923年(大正12年)8月4日指定。 木造吉祥天立像:1923年(大正12年)8月4日指定。 木造増長天立像:1923年(大正12年)8月4日指定。 いずれも平安時代の作品。
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国の重要文化財
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本殿 - 慶安3年(1650年)建立。昭和27年(1952年)7月19日指定 唐門 - 慶安3年(1650年)建立。昭和27年(1952年)7月19日指定 拝殿および幣殿 - 慶安3年(1650年)建立。昭和27年(1952年)7月19日指定
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国の重要文化財
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今西家住宅 - 姓氏は磯城縣主に連なる十市氏で、廣瀬大社曾禰連樋口家の婿養子となり河合城を築き名字を河合とした。1566年(永禄9年)2月、十市遠勝が筒井順慶に圧迫されて今井へ亡命した後を追って、河合清長は十市衆の一族郎党を引き連れて当地に移住し、1575年(天正3年)に織田信長軍と戦ったが敗れた。信長から赦免され自治権を認められて裁判を執り行った。大坂夏の陣の際、今井町の西辺において大野治房らを撃破した功により、徳川家康より薙刀来国俊を拝領され今西を名乗るように薦められた。その後、建物は1650年(慶安3年)に建て替えられ、内部の土間にはお白州があり、拷問部屋のいぶし牢が残っており陣屋として使われた。1679年(延宝7年)、今井は天領に組み入れられ、三惣年寄の筆頭になり領主・代官の町方支配の一翼を担った。戦国時代の構造様式を残す建造物で、別名「八つ棟」(やつむね)または「八つ棟造り」と呼ばれている。日本建築史上貴重な建物の1つであり、納戸の帳台構えは日本最古で「民家の法隆寺」と言われる。月曜日休館。1957年(昭和32年)6月18日重文指定(附・棟札1枚)。 豊田家住宅 - 屋号を「紙八」といい、江戸末期から明治初年にこの家に移り住んだ。元々は材木商で金融業を営む豪商牧村家の所有で「西の木屋」と呼ばれた。福井藩藩主松平春嶽に貸し付けを行い藩の蔵元を務め、高取藩に融資し重臣の待遇まで受けていた。しかし、明治維新後の廃藩置県によって大名貸の貸付金が凍結し、債権が放棄され今井町を離れざるを得なかった。なお、大阪府堺市の大仙公園にある今井町出身の今井宗久ゆかりの茶室「黄梅庵」はもと牧村家所有の茶室を電力王で小田原三茶人の一人である松永安左エ門が買受け、小田原市に移築したものを1978年(昭和53年)に相続人の松永安太郎が堺市に寄贈し、堺市制90年記念事業の一環として1980年(昭和55年)10月、大仙公園内に移築された。この茶室は秀吉の吉野山花見に設けられ「宗久茶屋」と称され、後に松永安左エ門が今井宗久の菩提寺大徳寺黄梅院 (京都市)にちなんで「黄梅庵」と名付けた。住宅は1662年(寛文2年)の建築で今井町では、今西家に次いで古い。事前予約必要。1972年(昭和47年)5月15日重文指定。 上田家住宅 - 屋号を「壺屋」といい、先祖は、葛下郡片岡城主・片岡新助藤原春利で片岡城落城後、上田新七郎之長が1571年(元亀2年)当地に移住した。1679年(延宝7年)より今西家・尾崎家と並び惣年寄を務めていた。当家には、惣年寄の旗が残っている。1744年(延享元年)の祈祷札がありこの頃の建築とみられる。入母屋造りで、大壁造の妻をみせた外観は重厚な感じを与え、入口が西に構えているのは珍しい。事前予約必要。1972年(昭和47年)5月15日重文指定。 音村家住宅 - 屋号を「細九」といい、かつては金物問屋を営んでいた。17世紀後半頃の建築と推定される。1972年(昭和47年)5月15日重文指定。 高木家住宅 - 四条屋の分家で屋号を「大東の四条屋」といい、本家の酒造業を助けながら、後には醤油業も営んでいた。1829年(文政2年)津田長道の「卯花日記」には、「今井里人高木氏は、世々四条村の人 にして、今は今井に家居す。此家にむかしより 此社の事つかさどる事になりて、別に神主もなければ、此家より神供灯明のことを物しける。高木の宮(高市御縣神社)と云也といへり」という記述があることから高市許梅に関係が深い一族である。切妻造本瓦葺きの2階建で、幕末上層民家の特徴が残る。江戸時代末期(文政~天保頃)の建物。1972年(昭和47年)5月15日重文指定。 中橋家住宅 - 屋号を「米彦」といい、米屋を営んでいた。建築年は不明なものの、1748年(寛延元年)の絵図に描かれていることから、当時すでに住居を構えていたことがわかる。1761年(宝暦11年)には南町組頭を務めていた。非公開。1972年(昭和47年)5月15日重文指定。 旧米谷家住宅(きゅうこめたにけじゅうたく) - 屋号を「米忠」といい、代々金具商、肥料商を営んでいた。農家風の民家で、18世紀中頃の建築と推定される。また、1849年(嘉永2年)には、内蔵、蔵前座敷を増築している。近年まで内蔵が3棟あったが、現在は1棟のみになっている。建物は1956年に国有になっており、内部は無料で一般公開されている。月曜日休館。1972年(昭和47年)5月15日重文指定。 河合家住宅 - 屋号を「上品寺屋」といい、寛永年間に上品寺村(橿原市上品寺町)から移住した。家蔵文書によると1772年(安永元年)には既に酒を造っており、今なお酒造業を営んでいる。18世紀後半の建築。1976年(昭和51年)5月20日重文指定。 称念寺本堂 - 浄土真宗本願寺派の寺院である。先祖は、佐々木氏の随兵で近江国犬上郡の荘官を務めていた河瀬城主河瀬氏である。浅井長政の家臣であった河瀬権八郎(河瀬兵部丞)が逃れて得度し、寺号を得て御坊(今井山)を開いた。今井町は称念寺を中心に発展した寺内町であったが、織田信長に武装解除されてから以後は、自由商業都市として栄えた。豊臣秀吉の天下になって河瀬氏から今井氏へ改名し、秀吉の吉野花見の途次、「兵部茶屋屋敷」を建て秀吉を招いている。また、1877年(明治10年)2月10日~11日明治天皇の「大和行幸」の際の今井行在所(あんざいしょ)であった。このとき明治天皇は、西南戦争勃発の第一報を聞いている。本堂は近世初頭に再建されたものであるが、浄土真宗では本山の本願寺以外で初めて2002年(平成14年)5月23日に国の重要文化財に指定された。また、対面所は元禄8年(1695年)の棟札があり、庫裏・客殿は17世紀初期頃の建設で、太鼓楼は1845年(弘化2年)の再建でいずれも橿原市指定文化財に指定されている。
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国の重要文化財
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旧石井家住宅 - 江戸時代中期(1601年-1700年)の建立。桁行15.5m、梁間9.1m、寄棟造、茅葺。元禄期に建てられた農家を移築したもの。石井家はもともと後北条氏に属した地侍で、後北条氏滅亡後帰農し、関谷村の名主を代々務めたと伝わる。1969年(昭和44年)6月20日、重要文化財に指定。
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国の重要文化財
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清冷山福智院(福智(地)律院、清水寺) 前身は736年(天平8年)に玄昉が創建し、興福寺の僧が再興して福智院に改名し、その後叡尊が再建した。 今西家書院 福智院氏の居宅を大正13(1924)年、今西家が譲り受けた。昭和12(1937)年8月25日、国宝保存法により、京都の二条陣屋、大阪の吉村邸と共に民間所有の建造物として初めて国宝の指定を受ける。。昭和13(1938)年、柱の根継ぎや床組などの部分修理に次いで、昭和53(1978)年工事期間16ヶ月をかけ解体修理工事を行う。角柱・障子・襖など書院造りの要素は、現代和室の様式へと広く受け継がれている。 本尊 地蔵菩薩像 桧の寄木造りの上に漆を塗り重ね、その上に彩色が施されている。。右手に錫杖を執り、左手に宝珠を捧げ、右足を安座にした丈六(2.73m)の座像で、宜字座(1.60m)の上に、舟型の光背(5.05m)一ぱいに小形の化仏をつけた、千仏光背を背負っている。台座からの総高は6.76mもあり、どっしりとした南都特有の鎌倉彫刻で、気魄に満ちた御本尊は慈相をたたえて鎮座されている。千体仏舟型挙身光背で、二重円相部には、頂上に不空成就如来(釈迦と同体)、左右三躰つづ、六体の地蔵菩薩像(六地蔵)、最下部左右に二体の冥官座像があり、諸定、諸地獄を決定する?魔王と太山王の二王で、周縁部の光背千体地蔵は、簡略化した造りである。仏像の光背に多数の化仏を表すことは、その仏の功徳や世界観を表すものとして、経本には説かれているが、それを造像に表現することは現存例としては少なく、地蔵尊としては、福智院の本尊のみである。光背の化仏は560体、六地蔵と本尊を入れると全部で567体である。本尊の地蔵菩薩坐像は、像高2.73mの大作で、威風堂々とし、光背にも千体地蔵を表している。像内の墨書などにより、1203年に福智庄(現奈良市下狭川町付近)で造られ、1254年に当地に遷されたと考えられる鎌倉時代の南都の代表的な地蔵像である。
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国の重要文化財
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建造物 表書院 1955年(昭和30年)6月22日指定 奥書院 1955年(昭和30年)6月22日指定 旭社附棟札2枚 1982年(昭和57年)2月16日指定 四脚門 1982年(昭和57年)2月16日指定 美術工芸品 絹本著色弁財天十五童子像 1901年(明治34年)3月27日指定 紙本著色なよ竹物語絵巻 1901年(明治34年)3月27日指定 紙本墨画遊鶴図17枚 1901年(明治34年)3月27日指定 円山応挙の筆による表書院「鶴の間」の障壁画。 紙本墨画遊虎図24枚 1901年(明治34年)3月27日指定 応挙の筆による表書院「虎の間」の障壁画。日本には虎がいなかったため、虎の毛皮を見ながら描いたと伝わる。 紙本墨画竹林七賢図16枚 1901年(明治34年)3月27日指定 応挙の筆による表書院「七賢の間」の障壁画。 紙本墨画瀑布及山水図33枚 1901年(明治34年)3月27日指定 応挙の筆による表書院「山水の間」及「上段の間」の障壁画。 木造十一面観音立像 1919年(大正8年)8月8日指定 平安時代に作られた檜材の一木造、像高144cm。頭に着けられていた10面の仏や装飾および台座は失われている。旧松尾寺の観音堂の本尊であった。 太刀 銘長光 1911年(明治44年)4月17日指定 太刀 銘備州長船(以下不明)明徳(不明)年(不明)月 1923年(大正12年)3月28日指定 師光による作と伝わる。 短刀 銘筑州住国弘作 1922年(大正11年)4月13日指定 伏見天皇宸翰御歌集 1919年(大正8年)8月8日指定
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