じょうきょう‐れき〔ヂヤウキヤウ‐〕【▽貞享暦】
貞享暦〈渋川春海筆/(巻四補写本)〉
主名称: | 貞享暦〈渋川春海筆/(巻四補写本)〉 |
指定番号: | 72 |
枝番: | 0 |
指定年月日: | 1994.06.28(平成6.06.28) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 歴史資料 |
ト書: | 元禄十二年春序 |
員数: | 7冊 |
時代区分: | 江戸 |
年代: | 元禄12年 |
検索年代: | |
解説文: | 近代以前において、日本は太陰太陽暦により暦を作成していた。毎年の頒暦の作成には計算の基礎となる暦法が必要だが、それは中国のものを採用し用いてきた。しかし、平安時代貞観四年(八二六)に唐の『宣明暦』を採用して以来、一太陽年の長さがわずかに長すぎることにより約八〇〇年後の江戸時代中頃には二日以上の天象との狂いを生じた。 天文学者渋川春海(一六三九-一七一五)は延宝元年(一六七三)六月に朝廷に上表して、『宣明暦』が現実の天体の運行とのずれが大きく、農耕にも時を失するので、速やかに改暦されるように請願した。そして観測・研究を続けて、元の『授時暦』が精密であることを主張し、自ら暦法を作って『大和暦』と名付けた。これは『授時暦』の作成された元時代からの近日点の移動を考慮し、元と日本との経度の差(里差)を補訂して作成したものである。改暦の問題については朝廷内にさまざまな議論があったが、結局貞享元年(一六八四)十月二十九日、春海の新暦法による改暦宣下があり、『貞享暦』の名を賜って、翌二年から施行された。その後春海は幕府の初代天文方となり、編暦の実権は朝廷から江戸幕府に移り、全国の暦の統一と暦師の統制も行うことになった。 国立公文書館内閣文庫所蔵の『貞享暦』は渋川春海自筆本で全七冊からなるが、うち巻四は後の補写本である。内容は巻一が議上、巻二が議中、巻三が議下で、この暦法の理論的根拠や他の暦法との比較、観測法等を記す。巻四が推歩上、巻五が推歩下で、頒暦作製時の計算方法を記す。巻六が立成上、巻七が立成下で、太陽や五星の運行遅速等の数値表である。巻一の巻頭には元禄己卯春天文生保井助左衛門源春海の序文「貞享暦引」と、改暦までの経過を示す貞享元年三月三日の改暦宣下の詔、同日の宣旨、朝廷の改暦陣儀次第、貞享元年十月二十九日の貞享暦による改暦宣下の宣旨、天和三年十一月冬至の春海の表である「請革暦表」があり、それに目次である「貞享暦目録」がある。各冊内題下に「天文生保井算哲源春海編著/陰陽頭安倍朝臣泰福校正」とあり、朝廷の天文生として陰陽頭安部泰福【あべのやすとみ】のもとで改暦を行ったという形をとっている。 『貞享暦』は元の『授時暦』に範をとったものであるが、里差を考えて日本に適合するように作られた、日本人の手による暦法として、天文学、暦学の上で大きな意義をもつ。 |
貞享暦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 00:45 UTC 版)

貞享暦(じょうきょうれき)は、かつて日本で使われていた太陰太陽暦の暦法である。渋川春海によって、初めて日本人の手で編纂された和暦である。
使用期間
貞享2年1月1日(1685年2月4日)に宣明暦から改暦され、宝暦4年12月30日(1755年[1]2月10日)までの70年間使用された。
宝暦5年1月1日(1755年2月11日)、宝暦暦に改暦される。
概要

渋川春海に対し改暦の準備を命じたのは、徳川家綱の補佐役であった会津藩主保科正之だった[2]。保科は家臣安藤市兵衛(有益)と島田覚右衛門(貞継)に授時暦を用いて暦を作らせることにし、渋川と山崎闇斎が監督を命じられた。しかし授時暦を制定した元はかつて日本を攻めたので授時暦と同じ暦元(暦の起点となる日。授時暦では制定された至元18年(1281年)の前年の冬至日。)を用いるのはよくない、と保科が言ったので、苦心して計算して暦元を自分たちが生きている時代に移した。寛文12年(1672年)12月、宣明暦では月食があるとされていたが、実際は起きなかった。授時暦では月食は起きないことになっており、授時暦の優位性が示されたものの、同月保科正之は死去する。(谷重遠『秦山集[3]』)
渋川は翌延宝元年(1673年)6月に徳川家綱に改暦を請う上表文を提出した[4]。しかし、延宝3年(1675年)5月の日食を授時暦では起こらないとしていたにもかかわらず、宣明暦の予測通り日食が起きてしまったために、改暦の計画は頓挫する。授時暦が作成された13世紀には冬至点と近日点がほぼ一致していたが、江戸時代にはずれていたのが原因の一つである。渋川はこのような時代差や中国と日本の経度の差を考慮して暦の改良に取り組むこととなる[5]。
この間、渋川は同じ山崎闇斎門下の土御門泰福と学問的に交流したことが延宝9年(1681年)の『泰福卿記』の記述から分かる[6]。
天和3年(1683年)11月、渋川は徳川綱吉に改暦の上表文を提出する。上表文には同年陰陽頭となった土御門泰福の名前も現れ、京都の朝廷で改暦が議論される運びとなり、渋川も京都に招喚される[7]。
翌貞享元年3月3日(1684年4月17日)、霊元天皇より改暦の宣下があったが、その内容は大統暦を採用するというものだった[8]。渋川が土御門泰福、武家伝奏甘露寺方長を通じて朝廷に働きかけた結果、10月29日(1684年12月5日)に大統暦ではなく貞享暦と命名する新暦(渋川らは「大和暦」と呼んでいた[9])を採用するとの宣下があった[10]。
渋川はこの功により、幕府から新設の天文方に任命された[11]。渋川春海が元禄12年(1699年)に呈上した自筆の『貞享暦』は、紅葉山御文庫に納められた後、国立公文書館所蔵となり国の重要文化財に指定されている[12][13]。
なお、800年ぶりの改暦は当時話題となり、井原西鶴は『暦』、近松門左衛門は『賢女手習並新暦』を執筆している。
脚註
- ^ 宝暦4年12月30日(貞享暦)は、グレゴリオ暦では年が明けて「1755年」となる。
- ^ 梅田 2021, p. 403.
- ^ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年4月6日閲覧。
- ^ 林 2018, p. 31.
- ^ 林 2018, pp. 32–35.
- ^ 梅田 2021, pp. 405–406.
- ^ 梅田 2021, pp. 406–411.
- ^ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年4月11日閲覧。
- ^ 林 2006, p. 43.
- ^ 梅田 2021, p. 423.
- ^ 中村 2012, p. 30.
- ^ “国指定文化財等データベース”. kunishitei.bunka.go.jp. 2024年4月11日閲覧。
- ^ “旗本御家人III - 29. 貞享暦(じょうきょうれき) : 国立公文書館”. www.archives.go.jp. 2024年4月11日閲覧。
参考文献
- 梅田, 千尋 編『新陰陽道叢書』 第3巻 近世、名著出版、2021年5月15日。ISBN 978-4-626-01876-2。
- 中村, 士『江戸の天文学 渋川春海と江戸時代の科学者たち』角川学芸出版、2012年8月25日。 ISBN 978-4-04-653265-7。
- 林, 淳『天文方と陰陽道』山川出版社〈日本史リブレット〉、2006年8月25日。 ISBN 4-634-54460-1。
- 林, 淳『渋川春海 失われた暦を求めて』山川出版社〈日本史リブレット人〉、2018年11月15日。 ISBN 978-4-634-54850-3。
関連項目
貞享暦と同じ種類の言葉
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