五紀暦とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 生活 > 時間 > > 五紀暦の意味・解説 

ごき‐れき【五紀暦】

読み方:ごきれき

762年中国唐の郭献之らが勅によって作成した太陰太陽暦五紀1記したもの。日本では天安元年(857)から貞観3年861)まで用いられた。


五紀暦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 08:32 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

五紀暦(ごきれき)は、中国暦の一つで、かつて中国日本などで使われていた太陰太陽暦暦法である。

中国のの天文学者の郭献之が編纂した暦法である。中国では、宝応元年(762年)から建中4年(783年)までの22年間用いられた。ただし、この改暦は安史の乱後に衰微した唐王朝の権威再建を図る代宗によって強引に進められたものとされ、実際には大衍暦で採用された天文定数をその前の麟徳暦(日本における「儀鳳暦」)の形式に改めただけとされている。

そのため、日本では天応元年(781年)に一度は改暦が検討されたものの、実施には至らなかった(『類聚三代格』所収・貞観3年6月18日太政官符)。天安2年(858年)から貞観3年(861年)までの4年間、それまで使われていた大衍暦と併用された。これはこの前年に暦博士大春日真野麻呂の提案によって行われた大衍暦を改暦する前の試用であった(『日本文徳天皇実録』)が、試用開始の翌年に渤海使宣明暦を請来する[1]と、真野麻呂は宣明暦の採用を主張するようになった[2]。貞観4年(863年)に真野麻呂の主導によって宣明暦が導入され、五紀暦が単独で用いられることはなかった。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 天応の改元検討から宣明暦改暦までに2回遣唐使が派遣されており、五紀暦が廃された情報は知られていた可能性が高いものの、新暦(宣明暦)の暦法理論が入ったのはこの時が初めてであったとみられる。実際、承和の遣唐使の際に新暦を学ばせる予定であった留学生が逃亡して結果的に佐渡への流刑になっていることが『続日本後紀』承和6年3月16日条に記されているからである(湯浅吉美 2015, p. 186)。
  2. ^ 湯浅吉美は藤原良房が孫である清和天皇即位直後の貞観2年(860年)に朔旦冬至が来るように暦法に反する修正を命じた(『日本三代実録』貞観2年閏10月23日・25日条)ことに真野麻呂が憤慨して、強引な修正で朔や節気が破綻したことを理由に折しも渤海使がもたらした新暦(宣明暦)への改暦を迫り良房もこれを受け入れざるを得なかったと推測している。

参考文献

  • 細井浩志『古代の天文異変と史書』吉川弘文館、2007年9月。ISBN 978-4-642-02462-4
  • 湯浅吉美「五紀暦併用と宣明暦採用に関する一考察」『法制と社会の古代史』慶應義塾大学出版会、2015年5月。ISBN 978-4-7664-2230-6



五紀暦と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「五紀暦」の関連用語

五紀暦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



五紀暦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの五紀暦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS