日奥とは? わかりやすく解説

にちおう〔ニチアウ〕【日奥】

読み方:にちおう

[1565〜1630]安土桃山江戸初期日蓮宗の僧。京都の人。不受不施派の祖。豊臣秀吉千僧供養応じず、のち徳川家康によって対馬配流(はいる)。許されてのち妙覚寺住した


日奥

読み方にちおう

安土桃山江戸前期日蓮宗の僧。不受不施派の祖。京都生。字は教英、号を安国院仏性院。妙覚寺日典の法を嗣ぎ、同十九世となる。豊臣秀吉主催千僧供養会への出仕拒否したため流罪となる。のち許される本満寺日重らと対立。また徳川家康による大坂城での供養会への出仕拒否したが、身延山日乾らと対論敗北したため、歿後再び流罪判決受けた。著に『宗義制法論』等。寛永7年(1630)歿、66才。

日奥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/03 05:08 UTC 版)

不受不施 日奥

日奥(にちおう、永禄8年6月8日1565年7月5日) - 寛永7年3月10日1630年4月22日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の法華宗日蓮宗)の。字は教英。号は仏性院、安国院。不受不施派の祖。

経歴

永禄8年6月8日(1565年7月5日)、京都の呉服商の辻藤兵衛の子に生まれる。

文禄4年(1595年)、妙覚寺21世となっていた日奥は、不受不施の立場から秀吉が主催した方広寺大仏(京の大仏)の千僧供養への出仕を拒み、秀吉に「法華宗諌状」を提出した後、妙覚寺を去った。

慶長4年(1599年)、大阪対論により対馬に流罪となった。対馬の国昌寺に滞在すること23年、元和9年(1623年)に赦免となり、不受不施派の弘通が許された。

寛永7年(1630年)、受布施派と不受不施派の対立が再燃する中で死去。同年4月、両者は江戸城にて対論(身池対論)した結果、日奥は幕府に逆らう不受不施派の首謀者とされ、再度対馬に流罪となったが、既に亡くなっており、その遺骨まで流されたとされる。

著書

『守護正義論』、『禁断謗施論』、『宗義制法論』等がある。

参考資料

  • 宮崎英修編『日蓮辞典』東京堂出版、1978年



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