江戸前期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:17 UTC 版)
最初期の浮世絵は、版画はなく、肉筆画のみであった。桃山期の「洛中洛外図屏風」と比べ、岩佐又兵衛の同屏風(通称「舟木本」1614-16年〈慶長19-元和2年〉)は、民衆の描写が目立つようになり、そこから寛永年間(1624-44年)頃に「彦根屏風」「松浦(まつら)屏風」(3点とも国宝)といった、当世人物風俗を全面に出す作品が生まれた。 美人画は、風俗画からの発展だけでなく、禅寺にあった明朝の楊貴妃像を日本女性にあてはめた説がある。そして落款に「日本絵師菱川」「大和絵師」と名乗って現れたのが、菱川師宣である。安房国の縫箔(金銀箔を交えた刺繍)屋出身。「見返り美人」(東京国立博物館蔵)に代表される掛物(いわゆる「掛け軸」)のほかに、巻子(かんす。いわゆる「まきもの」)、絵本や浮世草子、枕絵などの版本と、多彩な活動をした。師宣の登場は、17世紀後半に、江戸の文化が、上方のそれに肩を並べる契機となる。版本は、最初は墨一色だが、後期作品として、墨摺本に筆で彩色する「丹絵」が表れ、一枚摺りも登場する。 師宣没後、奥村政信は、赤色染料を筆彩した紅絵や、墨に膠を多く混ぜ、光沢を出す漆絵、柱絵に浮絵も創始し、2・3色摺りを可能にした紅摺絵や、拓本を応用した、白黒反転の石摺絵の創始にもかかわった。そして、絵師だけでなく、版元「奥村や」を運営し、自由な作画と販売経路を得た。また、自身の作品を取り扱うだけでなく、他の版元と商品を卸しあい、商機を広めた。活動期間も半世紀に渡った。 歌舞伎は江戸初期に生まれ、幕府の禁令もあり、成人男性のみが演ずる形になった。歌舞伎の役者絵に特化したのが鳥居派である。「瓢箪足蚯蚓描(ひょうたんあし みみずがき)」と呼ばれる、瓢箪のようなくびれた足に、蚯蚓が這いまわったような強い墨線を生かした描写、「大々判」という大きな判型(約55×33センチ)で知られた。鳥居派は現在も継承されており、歌舞伎座の看板を手がけている(鳥居清光)。 懐月堂安度は、工房で肉筆の美人画を量産した。庶民を購入層とし、安価な泥絵具を用いた。 1720年(享保5年)に8代将軍徳川吉宗が禁書令を緩和し、キリスト教に関係のない蘭書の輸入を認めたことで、遠近法を用いて描かれた銅版画等を見る機会が生まれた。遠近法は、奥村らによる浮絵を生むこととなる。
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